好きなことを仕事にする人生は、外野から見ていると華やかで成功しているように見えます。好きなことを仕事にしたほうが“いい”人生だから、好きなことを見つけたい。でも、仕事にできる好きなことなんて何もない……そうした悩みを抱えている人もいるかもしれません。
大切なのは、納得感。目指したわけでも好きなことを選んできたわけでもないけれど、自分で決めた道を生きてきた彼女の言葉には、明るさと強さがありました。
妻であり、母であり、3つの仕事をもつパラレルワーカーでもある、高梨リンカさん。彼女がおすすめしてくれたお店で、昼間からアルコールを交えながらお話をうかがいました。
高梨リンカさんのミチイロ
現在、高梨リンカさんはフリーライター・ブロガー・塾講師バイトと三足の草鞋を履いているパラレルワーカーです。加えて、小学生の娘さんの母親でもあります。
フリーライターやブロガーといったフリーランスの職業は、時としてキラキラしていると思われることがあるかもしれません。「好きなことを仕事にした」、ひとつの成功事例のようにとらえている人もいるでしょう。
しかし、リンカさんは、どの仕事も「この職業に就きたいと思って目指したわけではない」と語ります。
歩いていくなかで履いた、三足の草鞋
――三足の草鞋を履いているリンカさんですが、「これが本業」といえるものはあるのでしょうか。
高梨リンカさん(以下、リンカ):金額的にも意識的にも、極端な偏りはありません。ブログは、特性上もっとも収入が変動しやすいものですが、一定の増減がある程度ですね。
――もともと、何かを書く仕事をしたかったのでしょうか。
リンカ:いえ、全然。むしろ、今の仕事はどれも行きがかり上はじめたといっても過言ではないんです。
――日記的なブログを書いたり、mixiでよく書いていたりした、なんてことは?
リンカ:なかったですね。一度だけ日記的なブログを書きましたが、それっきり。
「〇〇になりたい」ではなく、「働きつづけたい」と思っていた
――子どもの頃は何になりたいと思っていましたか?
リンカ:あまり具体的な職業で考えていたことがなくて。ただ、専業主婦になる道は中高生時代に「ないな」と思っていました。
私はいろいろな事業を手掛ける自営業の父と専業主婦の母という家庭で育っていて、亭主関白系の父と支える母を見てきたんです。毎日こまごまとした家事をこなしつづけて家族を支えているのに、ことさら感謝されたり認められたりするわけではなくて、自分の稼ぎもない。私には向いていないなあ、と思うようになりました。一生、働く道を選びたい。そう心に決めていましたね。
ちなみに、両親は私が大人になってから離婚しています。夫婦間のことなので娘の私がすべてを把握しているわけではないのですが、目に見えて揉めることが増えたと感じていました。
危ういながら保たれていたバランスを崩してしまったのは、私なんです。何で離婚しないのか、と口を挟んでしまって。離婚後の母の現実にまで思いが至っていませんでした。調停のなかで、家庭を支えてきた母に対する父の態度もあらためて見えてしまった。私が安易に口を出してしまったばかりに…と後悔しているできごとです。
――離婚により専業主婦のお母さまが受ける影響を見て、働きつづけたいと思ったわけではないのですね。
リンカ:はい。ただ、専業主婦が嫌だからではなく、私の適性の問題でしたね。
……ああ、具体的な将来の夢、ありました!高校時代に警察官になりたいと思っていました。警察官になって殉職したかったんです。
――え、殉職までがワンセット?
リンカ:自分の信念に基づいて仕事で死ぬってかっこいい、と思っていて。刑事ドラマが好きなんです。本も推理小説が好きで。
――本を読むタイプの子どもだったのでしょうか。
リンカ:読むことには読んでいましたが、「本好きのおとなしい子」タイプではありませんでした。小学生時代までは、勝気でおてんば。週刊少年ジャンプやゲームがすきだったので、男の子の友達も多くて。当時は女子で少年ジャンプを毎週読んでいたりゲームがすきだったりする子って、少なかったんですよね。
男の子にからかわれたりいじめられたりすると、本気でムキになるようなタイプでした。自分の正義で突っ走る学級委員タイプでしたね。口も手もよく出ていました。相手に飛び蹴りをかましてしまうような。
――強い。運動神経がよさそうです。
リンカ:体育は好きでしたね。でも、中学生になってからはおとなしい女の子に変貌したんです。少年マンガに出てくるヒロインタイプになってみようと思って、意識的にキャラクターを変えました。公立中学だったので、小学生時代を知っている子もいたんですが。
タイプを変えてみたら、男の子に絡まれなくなりました。私が反応するから余計に絡んでいた部分があったのでしょうね。
学生時代は女の子からのいじめを受けたことが何度かあります。思春期の女子あるあるでもありますが、女子の陰湿なところが大嫌いでしたね。そうしたこともあって、高校は知り合いがいないところに行こうと思い、自宅から遠い私立高校を受験しました。「同じ中学出身者が受けないところ」「女子が少ないところ」を基準にして見つけた高校が、少し偏差値レベルが上のところだったので、受かるためにがんばって勉強しました。
――念願叶った高校では存分に楽しめましたか?
リンカ:それがですね、行ってみたら校則や縛りが厳しい進学校でして。学校の箔をつけるために、名の通る大学を目指すことを是とする価値観の高校でした。だから、私も受験校は履歴書映えする大学を中心に、受かりそうな学部学科を受けたんです。ほぼ全滅で、受かったのは英語関係の学部のある大学でした。
――英語関係の職につきたい、などは考えていなかったのですか?
リンカ:受かってから、「海外にも興味あるし楽しそうだな」とは思いました。ああ、でも今思えば中学時代の部活が英語部だったんですよね。高校時代は遠さを理由に帰宅部で、校則で禁止されていたアルバイトをこっそりしていました(笑)
私は無事受かった大学に行く気満々だったのですが、高校の先生からは猛反対されました。「浪人してあと一年がんばれば、もっといいところに行けるから」、と。いやいや、何で浪人しなきゃいけないの、と思いました。妥協して進学するならいざ知らず、私、全然不満はなかったんですよ。だから、そのまま現役で進学しました。
――成績優秀で期待されていたから反対されたのでしょうか。
リンカ:そこそこ勉強はできましたけど……うーん。とにかく高校の実績になる大学に行ってほしかったのだと思います。私、小ずるいから学校のテストは得意だったんです(笑)先生を見ていれば、テスト問題の傾向ってつかめるじゃないですか。
――学校のお勉強には法則があるかとは思いますが…小ずるいのではなく、賢いのだと思います(笑)
英語を学ぶなかで日本に興味を抱き、日本語学校の教師の道に進んだ
――大学では、どのようなことを学ばれましたか?
リンカ:英語のなかでもコミュニケーションに重きをおく学部でした。コミュニケーションをとるために必要な前知識として、ほかの国の文化や歴史にも触れたんです。学ぶなかで、私はかえって日本に興味を抱くようになりました。そのため、大学卒業後は学内のチラシで見た日本語養成学校に入学したんです。期間が半年だったのも、長すぎなくてちょうどいいなと思って。
――では、お仕事は日本語学校の先生に。
リンカ:はい。非常勤として29歳で結婚するまで働いていました。日本語学校の教師の仕事って、大変な割に給与面はあまりよくなくて。養成学校時代に、先生が「稼げないぞ」と言っちゃうような仕事なんです。
ただ、結婚を早くしちゃいたいなあと思っていたのもあったため、目先の給与はあまり重要視していませんでした。日本語教師は、国内の日本語学校はもちろん、海外にある日本語学校でも働ける仕事です。年を重ねたあとでも働ける「手に職」系の仕事なので、短期的な稼ぎよりも長期的なスキルを重視したんです。
――結婚願望が強かったのですか?
リンカ:そういうわけではなくて、早く人生の土台を固めてしまいたかったんです。早く結婚して出産できれば、あとはその前提で人生を決めていくだけだと思っていたので。
――産みたいときに産めるわけではないのが難しさではありますが、先に産み育てて仕事の集中期間をあとで設けるライフプラン、私もありだなあと思います。非常勤だったとのことですが、常勤になるのは難しかったのでしょうか。
リンカ:お話をいただいたことはあります。でも、非常勤でも十分ヘビーなのに、常勤は輪をかけてハードなんです。だから、あえて非常勤で留まることを選びました。授業だけではなくて、卒業後の進学・就職書類の添削や日本語で困ったときのサポートなど、時間外対応も多い仕事なんですよ。
――そして、結婚を機に退職されたんですね。
リンカ:結婚が決まって、ほどなくして妊娠がわかったのもありまして。通勤距離もあったため、一旦は辞めざるを得ないと判断しました。ただですね、辞めざるを得なかったんですが、働くこと自体を辞めることはできなくて。夫がなかなか安定した職につけなかったんです。
喫緊の課題だった「お金」。自分に今できることを模索して行動した
――仕事が長続きしない、働くのが嫌、といったタイプだったのでしょうか。
リンカ:タイミングの悪さがそもそもの発端だったんです。夫は、2011年4月に入社が決まっていました。その1ヶ月前に起こったのが東日本大震災です。就職が決まっていた会社は、倉庫が地震で壊れてしまいました。さらに、外国の企業だったため、震災の影響で自国に撤収してしまったんです。
――就職先が、なくなってしまった。
リンカ:はい。夫はすぐに次の仕事を探しましたが、当時の状況ではなかなか見つかりませんでした。決まった仕事も、労働環境と収入の釣り合いが取れていないブラック企業ばかり。めげずに転職を繰り返しながら、夫はだんだんネガティブになっていきました。
そうはいっても、おなかには娘がいる。出産後、3人で暮らしていくだけのお金は何としてでも必要です。無事に出産したあと、娘が生後4ヶ月頃に日払いの派遣バイトを週に1回はじめました。日曜なら夫が娘を見ていられるので。
――バイタリティがすごいです……!
リンカ:背に腹は変えられませんから。疲弊するほど働いている夫、0歳の娘、家事と育児をしている私、と考えたとき、一番いいのは日曜に私が働くことだと思ったんですよ。
ただ、倉庫作業の派遣バイトをしていたときに熱中症で倒れてしまったことを契機に、長く働きつづけられる働き方じゃないなと思いました。そして、そんなあるとき、夜まで預かってもらえる託児所に出会ったんです。1時間500円で、最長夜10時まで。「これだ!」と思いました。「預けながら高時給の仕事をすれば、プラスマイナスプラスになる!」と。
それではじめたのが、今も続けている塾講師です。
――なるほど。塾講師になりたかったわけではなく、お金の面から入ったんですね。
リンカ:身もふたもありませんが、そうです。自宅で行う授業準備時間も込みで時給を考えてくれている塾なので、時給が高額なんですよ。自宅での作業中は娘を預ける必要がないので、出費はゼロ。子どもを預けながら働く母として、非常にいい仕事に巡りあえました。
――その後、ライター・ブロガーと仕事の幅が増えます。きっかけは何だったのでしょうか。
リンカ:夫に持ち掛けた副業話がきっかけです。彼は語学が得意なので、「自宅で翻訳の仕事ができるらしいよ」と。そこで調べて知ったのが、クラウドソーシングサービスでした。
夫はしばらく転職に希望を失っていたのですが、その頃にもう一度チャレンジしてみる気持ちになっていたこともあり、そのときには何もアクションを起こしませんでした。反対に、行動したのが私です。見ていたら私でもできそうな仕事があったので、やってみようと飛び込んでみました。2016年の末のことです。
ブログをはじめたのは、年が明けた2017年です。別にブログを書きたかったからでもブロガーになりたいと思ったからでもなく、ライターの仕事に活かすためにはじめました。
ライターの仕事を探すなかで、「Wordpress入稿ができる方」と条件に書かれているのをいくつか見かけていたんです。「自分でWordpressを使ったブログを立ち上げて身に着けよう」と思ってはじめてみたのがきっかけでしたね。
――学ぶ意欲が非常に高いですね。
リンカ:学ぶことは好きですね。
――塾講師とライターとブロガー。まだお子さんが小さかった頃にそれだけの仕事をするのは大変だったのではないでしょうか。
リンカ:今思えば大変でしたね。ただ、ライターとブロガーは家で仕事ができますから。娘を抱っこして、顔をいじられながらキーボードを打っていましたよ(笑)
口出しはしない。自分の意志で動くことが、恨みのない納得の人生につながる
――パートナーに仕事のお話はされますか? 家事育児負担についてもお聞きしたいです。
リンカ:仕事の話は互いにしないですね。聞かれることもないです。もともと、しっかり線引きされている夫婦なんだと思います。私も全然聞きません。飲み会後に一向に帰ってこなくても怒りませんし。カバンの紛失や命に危険が及ぶことさえなければ、ですけれども。
家事が得意なタイプの男性ではありませんが、やろうとしてくれる姿勢はあります。とはいっても、私も必要性に駆られてやっているだけなので、偉そうなことは言えないんです。休みの日はとにかくよく寝ているので、娘が怒ることがあります(笑)「午前はママ、午後はパパ」と決めて過ごすことも多いです。
――娘さんは仕事を理解しているのですか?
リンカ:ブログの取材に一緒に行ったり、ブログ用の写真のモデルになってもらったりしているので、「インターネットに文章を書いている」ことはわかっています。モデルを務めてもらったときには、1枚100円を渡しているんです。働くことを体験するにもいいかなあ、と思っています。
――どのように育ってほしい、どのような母親でありたいと思っていますか?
リンカ:どんな人生であっても、自分が決めて納得した人生であればいいかな。夫にもですが、娘にも口出しをしないと決めているんです。人によってはスパルタだと思われるかもしれませんが、娘には小さい頃から自分のことを自分でやるように教えています。幼稚園や学校の準備、服装選びや髪を結うことなどですね。私は口頭で「やった?」と確認する程度。忘れてしまったときには、苦い感情を次に活かしてほしいですし、対処法も考えられるようになってほしいです。
夫が「止めようよ」というほどインパクトのある髪型やファッションのときもあるんですが、本人が「これがかわいい!」と思っているならそれでいいと思っています。親の一言って、子どもにとっては重いですから。たとえば、お友達に「変な恰好」と言われてしまっても、自分で決めたことなら「変じゃない!」と反論するのも「変だったのか」と気づくのも自由です。でも、親の口出しが裏にあると、責任転嫁できてしまいますよね。
後悔が絶対ない人生なんてありえませんが、自分で考えて決めてさえいれば、人や社会を恨まずに済みます。結婚したっていいし、しなくたっていい。相手が同性でも異性でも構いませんし、自らシングルマザーの道を選ぶならそれもいいでしょう。まだまだベタベタにかわいがってはいるんですが、娘は娘、私は私。別の人間として、互いが納得感のある生き方ができればいいですよね。
高梨リンカさんを作った三原色
コンテンツや出来事など、今の高梨リンカさんの元になる「三原色」を挙げてもらいました。
マンガ「幽☆遊☆白書」富樫義博
小中学生時代の思春期に読んでいました。バトルマンガとしての面白さだけではなく、セリフやエピソードに価値観を強く揺さぶられた作品です。
印象深いのは天沼という小学生の「なーんだ、みんな同じなんだ」というセリフです。見下していた同級生が自分と同じ悩みを持っていると知った場面のセリフですが、たったこれだけで憑き物がとれたように明るい顔になるんです。一見自分と違う価値観の相手も、話してみれば分かるところがある。そういうものだなあと深く感じたことを覚えています。
小説「失はれる物語」乙一
事故により右腕の触覚だけを残して寝たきりになった男性と妻を描いた短編小説です。右腕も動かせるわけではないため、自殺もできません。
結末に言及せずに説明することが難しいのですが、「自分の気持ちを殺してでも伝えたい想い」に気付かされました。私が自分の意見をすぐに口にして相手をねじ伏せてしまうタイプだったこともあり、言わないことでも相手を望むように動かせることに常識を覆された作品です。同時に、人の心の複雑さや愛など、多くのことを考えさせられました。
ドラマ「きらきらひかる」
女性4人がメインキャストの法医学ドラマです。各自の仕事をこなして、時に意見を戦わせながらも、いざというときには協力し、プライベートでも仲がいい。そうした関係性を見て、いじめられた経験から持っていた自分のなかの「女は陰湿」「プライベートを詮索して嫉妬し、陰口を言う」という偏見が和らぎました。「私は私、あなたはあなた」。性別を問わず、こうした関係性が好きです。
今回の「ミチイロビト」の振り返り
高梨リンカさん
埼玉県越谷市出身、在住。大学卒業後、日本語教師を経て結婚、出産。産後すぐに家計のためさまざまな仕事の経験を積む。現在はフリーライター・ブロガー・塾講師のアルバイトと3足の草鞋生活を送っている。一児の母。ゲームが好き。
Twitter:@ton_arukikata
blog:最底辺の歩き方
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