ミチイロ

“ふつうの家族”に憧れていた。親の離婚・再婚・傷ついた恋愛の果てに辿り着いた、七尾なおさんの“今”

約 17 分

生まれてくる家族を、選ぶことはできません。

「子どもは親を選んで生まれてくるんだよ」といわれることもありますが、少なくとも今の自分が選ぶように選んできたわけではないでしょう。

しかし、大人になった今、新しい家族の形は選べる。

「ふつうの家庭」に憧れを抱いていたと語る七尾なおさんに、お話をうかがいました。

七尾なおさんのミチイロ

七尾なおさん

大学中退、社会人歴ほぼなし、特筆すべきスキル・資格なし。2児の母。現在、フリーライター。

七尾なおさんとわたしとの間には、共通項がいくつかあります。出会ったのはTwitter。仙台と埼玉という物理的距離がありながらも、これまでに何度か行き来し、母子ぐるみで交流をつづけてきました。

今回インタビューを行ったのは、宮城で宿泊した古民家。子どもたちを寝かしたあと、夜通し話を聞かせてもらいました。

“大人の事情”に口を挟めない家庭だった

──仙台生まれ、仙台育ち、仙台在住なんですよね。

七尾なおさん(以下、なお):そう、途中宮城県の別の場所や北海道にいたことがあるんだけど、ほぼずっと仙台です。

──どのような家族で育ちましたか。

なお:父と母と3つ年下の弟の4人で、母は一時的に仕事をしていたこともあるけれど、基本的には専業主婦。母方の祖父母と一緒に同居していた時期を経て、両親が離婚しています。その後、母が再婚……と家族の形が何度も変化するなかで育ちました。

七尾なおさん

──ご両親の離婚は何歳頃のことだったのでしょうか。

なお:それがですね、定かじゃないんです。小2か小3の頃ではあるんだけど……。「大人の問題には口を出すな」といった家庭で、子どもにきちんと説明するといったことがなかったんですよね。目に見えて喧嘩をしていたわけでもなかったので、離婚の危機が及んでいることにも気づいていませんでした。

ただ、祖父母との同居中、父は個室から全然出てこなかったので、同居の難しさによるストレスがあったのかな。子どもと積極的に関わろうといったことはなくて、子育ては母に任せているような父でした。

離婚報告も、理由も、両親からは一切されていないんですよね。だから、詳しい事情は今でもわかりません。わたしたちに教えてくれたのは祖父でした。

──幼少期はどんなタイプの子どもでしたか?

なお:仲が良い子と少人数で仲良くしているタイプで、それは大人になった今も変わっていません。幼稚園時代には、ケーキ屋さんになりたいと言ってみたり、別のものを挙げてみたりと、ころころ将来の夢が変わっていた記憶があります。

──習いごとは何かしていましたか?

なお:幼稚園時代には英会話やスイミング、小学校入学後はピアノですね。いずれも、自分からやりたいといったのではなく、恐らく母にいわれてやりはじめたんじゃなかったかな。スイミングは肌トラブルが起きたため、割とすぐにやめたんですが。

ピアノが苦痛でしかなかったなあ。最初の先生がスパルタで、とにかく怖くて。やめたいと母に何度も訴えたんですが、小学校高学年までやめさせてもらえませんでした。やめられたのは、転校して先生が変わってからのことです。母は元の先生のことを気に入っていたので、先生が変わってからは無理やり続けさせようと思わなかったのかもしれません。

唯一、英会話は楽しみながら通っていた記憶があります。

──お母さまは、厳しいタイプ?

なお:喜怒哀楽が激しいタイプでしたね。教育熱心というわけではなくて、世間体を気にするタイプだったように思います。本人は「気にしていない」といってはいましたが……。

怒ったときには口調が荒れるし、引っぱたかれることもありました。親に子どもが振り回される感じの家庭で、口答えも許されませんでしたね。

──母親や娘と息子で対応が異なることがあると聞くことがありますが、弟さんと接し方が異なるといったことはなかった?

なお:うん、それはなかったかな。姉だから特別厳しかったということはなかったと思います。

母の再婚により、転校。「書くこと」をはじめた

七尾なお

──お母さまが再婚されたとのことですが、それは何歳頃のことでしたか?

なお:小学校3年生のときです。母がお世話になっている社長だと紹介されました。だから、わたしも「社長」と呼んでいました。飲み屋などの経営者で、再婚当時はかなり羽振りがよかったみたいです。母より一回り以上年上の人でした。

──再婚時、お母さまから相談や報告は……。

なお:「一緒に住むけど、いい?」の一言でしたね。母はもともと身体があまり強くなかったこともあり、父と離婚したあとも専業主婦だったんです。それもあって実家で同居をつづけていたんですが、祖父母と母との仲も実はあまり良好ではなくて。だから、再婚して実家を離れたかったのかな。学校も変わり、苗字も変わりました。

──実家と仲が良かったから同居に踏み切ったわけではなかったんですね。

なお:だと思います。後に祖母がいうには「かわいがって母を育てた」らしいのですが、母はそうは捉えていなかったようで。厳しい父だった祖父と祖母に同時に怒られて、逃げ場がなかったと聞いたこともあります。

──親の思いと子の感じ方にはギャップが生じるのかなと思います。再婚後、生活は少し落ち着いたのでしょうか。

なお:それが、全然。両親の離婚のときには不仲さに気付くことがありませんでしたが、社長と母とは再婚後からしょっちゅうケンカをしていたんですよ。言い合っている場面も記憶にあります。母がいないときに、社長がキレているとか。中学に入った頃には、母がわたしと弟を連れて実家に出ていくプチ別居も何度かありました。

──プチ別居……。弟さんとは、親について何か話したり分かち合ったりする部分がありましたか?

なお:親のことは全然話していませんでしたね。姉弟だからというのもあったのかもしれません。友達にはふつうに話していましたよ。「また別居だってよー(笑)」みたいに。正直、ネタにするしかないよね、といった感じでした。

──両親が離婚して、再婚後もこのような調子では、結婚にネガティブイメージを抱いてしまいそうです。

なお:でも、小学生以降のわたしの夢は「お嫁さん」だったんですよね。小学校高学年頃には、「お色直し5回したいなー」とか話していました。

──派手婚すぎやしませんか(笑)

なお:友達にも、「そんなにしないから」と突っ込まれていました(笑)

七尾なおさん

──好きだったこと、得意だったことは何でしたか?

なお:父が好きだったこともあり、幼稚園頃からファミコンで遊んでいました。男の子っぽいものが好きで、自分でジャンプを買って読んでいたり、男の子と遊んでいたりしましたね。高学年になってくると、ジャンプが合わなくなってきて、りぼんに鞍替えしたんですが。

勉強は……国語の作文は得意だったかな。読むものはマンガばかりで、本を読むほうではなかったんですが。小学校高学年頃からは日記を書いていたなあ。親に意見をいえる環境ではなかったこともあり、諦観しがちな子どもだったんですが、考えることは幼い頃から多かったですね。その思考が書くにつながったのかな。日記、まだ実家にあるかもしれません。……死ぬ前には燃やしておきたいです。

──わたしも日記を書いていた口です。間違っても死後家族に読まれたくはないですね……。

なお:友達にも、自分をあまり出せない方だったんです。だけど、言いたいことを言えない状況にそれなりにストレスを感じてはいて。書くと発散できますもんね。

──中学時代、部活動は?

なお:ソフトテニス部に入りました。小さい頃、親がテニスをやっていて、コートに連れて行ってもらっていたんです。それがきっかけかなあ。ハードな部で、練習に明け暮れていました。

ポジティブなパワーになっていた恋愛

──事前にもらったプロフィールに、「母と再婚相手が亡くなった」とありました。「何でも聞いていいよ」ともいってくれていましたが……。

なお:うん、大丈夫です。母と社長が亡くなったのは、中3の夏頃。詳しい事情は控えたいのですが、亡くなったのはほぼ同時期でした。その後は、弟と一緒に祖父母に引き取られています。

──中学3年生といったら、受験のことも考えなければならない時期ですよね。精神的にもかなりきつかったのではないかと思います。

なお:小学校3年生で転校したのが私立校で、中学校もその流れで私立だったんです。高校も同じくで、一般的な受験ほどハードな勉強をせずとも進学できる環境でした。そのため、母たちが亡くなったあと、しばらく学校を休んだのちに復帰し、無事に高校に進んでいます。

あとは、恋愛のポジティブパワーが支えてくれた部分も大きかったかな。当時、絶賛片想い中だったんです。わたし、片想い両想い関係なく、恋愛はポジティブなエネルギーになるんですよね。ちなみに、そのときの片想い相手は今の夫です。

七尾なおさん

──おお。お付き合いはできたのでしょうか。

なお:付き合うには付き合えたんですが、まだ向こうが幼くて、恋愛より友達を優先しすぎる温度差にわたしが耐えられず、別れちゃいましたね。

──中学生の男子だと、大人びている子と子どもっぽい子との個人差がまだまだ大きそうですよね……。そして、高校に入学。部活動は入りましたか?

なお:部の消滅を防ぎたいという依頼に応えるために、やったこともない囲碁クラブに入りました。ハードな運動部はもういいな、と思って。友達に誘われて、何となく入りましたね。とはいえ、マジメに活動するわけではもなく、おしゃべりしてばかりいるような形式だけの部活でした。

──どんな高校生活を送っていましたか?

なお:恋愛に関心が高い高校生活だった、といえるかもしれません……。紹介してもらったり、合コンに行ってみたりしていました。ベタですが、先生を好きになったこともあったなあ。あと、懲りずに夫のことをまた好きになったことも。結局、このときは告白したけど振られてしまったんですが。

あとは、当時「メル友」という出会い系の走りみたいなサービスが流行っていて、そこから付き合ったこともあります。このとき、ちょっとモテ期が訪れていまして、アプローチされることも多かったですね。だけど、わたし自分から好きにならないとダメなタイプなんですよ。アプローチされると途端に面倒になっちゃうので、アピールされた人とは付き合えませんでした。

──わたしも似たようなタイプです。いわれて好きになることがない……。

なお:でも、このあと付き合った人は例外で、夫に失恋した直後だったからかもしれないんですが、猛烈なアプローチにほだされてしまったんですよね。好きかもしれないな、と思って付き合うことにしました。ただ、この元カレとの付き合いが大変だったんですが……。

DV・モラハラから救ってくれた、第三者の介入

──ご自身のブログやnoteで、モラハラやDVの経験があると何度か書かれていますよね。この元カレのことでしょうか。

なお:そうです。付き合いだした当初は、とにかくやさしくて下手に出る人だったんですよ。変わったなと感じはじめたのは半年くらい経ってから。怒りっぽくなったな、扱いが雑になったなと感じはじめました。怒るときも、大声を出すようになって。

初めて手をあげられたのは高校3年生のときです。腕を殴られて、怒鳴られて。でも、落ち着いたあとは平謝りするんです。「別れたくない、絶対もうしない」って。

──典型的なやつじゃないですか……。

なお:ですよね。でも、ここでほだされちゃったんです。即座に別れることはないか、と思ってしまいました。

──でも、「もうしない」わけがなく?

なお:わけがなく。高校時代は学校が終わったらすぐに会いに行っていました。殴られることが出てきてからは悲しかったし理解もできなかったんですが、「この人をわたしが変えなきゃ」という使命感があったように思います。「友達もこういっているよ」と言い返しては、不機嫌になられて会話をシャットアウトされていましたね。

──何度も殴られるなか、別れ話を切り出したことはあったのでしょうか。好きの気持ちは残っていましたか?

なお:最初は頻繁に別れ話になっていました。でも、向こうが手放そうとしませんでしたね。一応、高校卒業までは好きだったのかなあ……。はじめは殴ったあとに平謝りすることを繰り返していたんですが、だんだんヘラヘラしたり「お前が悪いんだよ」とごまかしたりするようになっていきました。

友達にも本当のことは話せなくて、気軽に聞いてもらえそうな愚痴程度しか話せませんでしたね。

──高校卒業後は。

なお:大学に進学しました。本当は、東京に興味があったから上京したかったんですが、祖父母のきょうだいが「女の子で長女が出て行かなくてもいいじゃない」「おばあちゃんを助けてあげなさいよ」と口を出してきて。祖父はすでに亡くなっていて、祖母も反対することはなかったんですが、何となく出られなくて、地元の大学を選びました。

──何を学ばれていたんですか?

なお:学芸学部で、心理学を専攻していました。ただ、何かになりたいからといった強い思いが理由ではなかったですね。母に「大学は出ていた方がいい」と言い聞かされて育ったので、大学には行くものなんだと思い込んでいたんです。母は高卒で、苦労したことがあったがための助言だったのだと思います。

ただ、結局わたしは大学に通いつづけられませんでした。モラハラ・DVの元カレが、どんどんひどくなっていったからです。

──うう……。別れられなかったんですね。

なお:大学生になって彼が車を手に入れたこともあり、車中で待たされたまま大学に行かせてもらえなかったり、突然呼び出されたりしていました。まともに出席できませんでしたね。

交流があった父、そして祖母にも彼のことを話してはいたんです。特に親に話すと大ごとになるかもしれないと思って言えなかったんですが、もうこれはダメだと思って。なのに、誰も大ごとにしてくれなかった。

──大ごとにしてほしかった?

なお:してほしかったな。第三者からの介入がほしかった。家までやってくると、それが真夜中でも外でクラクションを鳴らされたり、「家に火をつける」と脅されたり。近所迷惑だし怖いし、結局また出て行ってしまう。どこまで我慢しつづけなければならないんだろうと思っていました。

バイトも行く前に車で拉致されてしまって無断欠勤になることもあり、さんざんでした。帰りは祖母に迎えに来てもらうよう頼んで、一緒に帰っていましたね。友達には、「今、わたしが急に殺されたら犯人はあいつだと思ってね」って。

──シャレにならないじゃないですか……。

なお:本当に。よく無事だったなと思います。大学を辞める羽目になったのは、元カレが北海道に引っ越す際に連れられて行ったからです。だけど、結果的にこれが別れられる出会いにつながりました。

──ここまできてしまった相手と、どのようにして縁を断ち切ったのでしょう。

なお:アルバイトをしていたパチンコ屋に、新しい店長が赴任してきたんですね。この店長がかなりおせっかいな人で、赴任早々全員と面談をしたんです。このときに、「困っていることはないか」と聞かれ、「プライベートでなら……」と濁しながら話しました。

店長は、このときの話を気に留めてくれていたらしく、無断欠勤が起きた翌日に自宅まで来てくれたんです。そのときのわたしには殴られたあとがあったので、ごまかしようもなく、事情を察してもらえました。結局、最後は店長の力添えで無理やり別れられたんです。

──店長……! ここで、第三者の介入を得られたんですね。本当に無事でよかった……。

なお:別れられる前には、パチンコ屋で新しく好きな人もできていました。相手も好意を寄せてくれていたので、別れる頃から店長がシフトを合わせてくれて、ひとりで帰らずに済むようにしてくれていたんです。

別れたあとは、晴れてその彼と付き合えました。とてもやさしい人でしたね。

──「でした」ということは……。

なお:今度は、借金男だったんです。

──借金……。

なお:わたしは結婚願望が強いままだったので、新しい彼氏ともいずれ結婚したいと思っていたんです。そのためには、パチンコ屋のバイトでは不安で。社員を目指すなら別ですが、そのつもりもなかったので、ふたりで辞めて、札幌に引っ越しました。

だけど、就職活動を精力的にするわけでもなく、やりたくないことばかりあげていて。仕方がないから、わたしはコールセンターなどで働いていました。生活費は折半していたんですが、結局、そのお金を彼は消費者金融から借金していたんですよね。

──道楽のための借金じゃなかった分、まだ救いはありますが……。

なお:かもしれません。ただ、わたしが嫌だったのは、「消費者金融からは借金をしていない」と嘘をつかれたことなんです。明らかに怪しい電話が自宅にかかってきたから気が付けました。問い詰めたら白状して、金額は50万円くらいだと。でも、結局それも嘘だったんですよね。

──ああ……。

なお:「ふたりでコツコツがんばって返していこうよ」と涙ながらに訴えたんですが、彼に目を逸らされて。これで心が砕け散りました。これはもうダメだと思って、仙台に帰ることにしたんです。

自分の家族を築き、「好き」を仕事に。

七尾なおさん
インタビューは夜、写真は朝に撮影。子どもたちは、母に構ってもらいたくて仕方がない。

──仙台に戻られたあと、結婚するまでにはどういった経緯があったのでしょうか。

なお:札幌時代は、mixiの全盛期でした。そこで、たまたま夫のアカウントを見つけて、連絡を取るようになったんです。

ちょうどわたしが仙台に戻ってきたのと同じくらいの時期に、彼も仙台に戻ってくることになっていて、「だったらまた遊ぼうか」という話になりました。

夫とは小学生時代の同級生だから、もう周りにもネタ扱いされているんですよ。わたしが何度も好きになっているのも知られているので。で、このときも「また好きになっちゃうんじゃないの?」といじられ、「ないない!」といっていたのに、結局その気になっちゃった。

「しばらく男はいい!」っていっていたんですが……。

──何度目かの正直ですね(笑)

なお:好きになったのは、小学生、中学生、高校生……4度目ですね(笑)そして、このときは夫も前のめりでした。結局、付き合う前のノリのメールから、ふわっと付き合うことになって、今に至っています。

──おばあさまも安心されたのではないでしょうか。

なお:かもしれません。ただ、仕事が契約社員やアルバイトが中心で、なかなか収入が安定しなかったんです。就職活動にあまり精力的でもなくて。仙台に帰ってきてから働きはじめた事務兼コールセンターで、息子・娘の産休育休を経たあとも家計のために働きつづけていました。

実は、この頃に一度ライターの仕事に出会っているんですよね。調べたらクラウドソーシングサイトが出てきて、登録してみたんです。だけど、このときはあまりうまくいかず、つづかなかった。

もう一度ライターの仕事にチャレンジしてみようと思ったのは、その後勤めた事務職時代の社長の言葉がきっかけです。若々しい考え方をしていて、「君の夢は何だい?」と訊いてくるような人で。その問いかけに思い浮かんだのがライターだったんです。そして、再チャレンジの結果、今があります。

最近、アルバイトとしてもライターの仕事をはじめました。息子と娘、ふたりの子どもを育てながら、自分のペースで働いていきたいです。

七尾なおさん

──ご両親のこと、再婚相手のこと、自身の恋愛での経験。今、なおさんの子育てに影響を与えているのではないでしょうか。

なお:うん、ありますね。実家は大人と子どもとの間に線を引くタイプだったので、身近な大人に不信感を抱くようになってしまいました。子どもだからと何も説明してもらえないのが嫌だったので、わたしは子どもには何でも話すようにしています。

あと、説明できる範囲で暴力の経験も伝えています。危険があったら逃げなきゃダメだと、何度でも伝えておきたいですね。

昔から「ふつうの家族」へのあこがれが強くありました。わたしの母は、身体が弱かったため、帰宅時には寝ていることが多くて、出迎えてもらった経験があまりなかったんです。だから、子どもの頃から、「ただいま」と帰ってくる子どもを「おかえり」と迎えられる母親になりたかった。子育ては大変なこともたくさんあるけれど、その想いはこれからも変わりません。

七尾なおさん
まだまだ甘えたい盛りの娘さんと。いつも素敵な母親だなあと思っています。

七尾なおさんの三原色

コンテンツや出来事など、今の七尾なおさんの元になる「三原色」を挙げてもらいました。

書くこと

子どもの頃は、特別好きだと自覚していませんでした。大人になり、ライターとして仕事をするなかで、実は好きだったんだなあと思うようになりました。

話すことが苦手なので、書くことが代わりになっている部分があります。食べる・寝るといった生活におけることと同列にあるもののひとつですね。

インターネット・SNS

子どもの頃はまだインターネットが普及していなくて、人間関係はリアルに限定されていました。だから、自分がいる世界のことしかわからず、書くことが好きな人が自分以外にもいることを知らず、自分は変わり者なのかと感じていたように思います。

インターネットの登場で、多くの価値観に触れられるようになり、世界がぐんと広がりました。

結婚・出産

もともと結婚願望が強く、世間一般がいう“ふつう”の家族に強く憧れていました。そのため、恋愛中も結婚を意識してしまうがあまり不安定になりやすく、重くなりがちだったなと思います。

結婚し、子どもが産まれたことで、心の隙間が少し埋まったのか、随分落ち着いたんじゃないかな。もともと、世話を焼かれたり守ってもらったりする側だったので、守るべき存在である子どもができたことにより、人としても成長したと思っています。

今回のミチイロビト

七尾なおさん

宮城県仙台市生まれ、在住。両親の離婚、再婚、死別と家族の形が変わる子ども時代を送る。大学中退後、結婚、出産。現在はフリーライターとしてふたりの子どもを育てながら働いている。

Twitter:@nao_2205
Blog:さくらさくころ

▼七尾なおさん執筆の「私の偏愛」はこちら

私の偏愛vol.4◆甘さも切なさも満足も、すべての感情を連れてくる乙女ゲーム

About The Author

卯岡若菜
1987年生まれのフリーライター。大学中退後、フルタイムバイトを経て結婚、妊娠出産。2児の母となる。子育てをしながら働ける仕事を転々とし、ライターとしての仕事を開始。生き方・働き方に興味関心を寄せている。
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