ミチイロ

すべては、幸せな“今”に繋がる伏線だった。宿木屋・宿木雪樹さん

約 26 分

友達と上手く関係を築けなかった。恋愛で手痛い体験をした。死にたいと思うほどのつらさを抱えていた。けれども、今はそれらすべての出来事が今に繋がる伏線だったのだと思える。

今を乗り越えて明日に足を運んできた裏側には、その時々での出会いがありました。そして、最良の出会いにより、ついに未来に繋がる扉の鍵を手に入れられた宿木雪樹さん。そのミチイロを辿ります。

宿木雪樹さんのミチイロ

photo by Mikoto Sagara

クレバー。ストイック。加えて繊細な感受性を持ち、的確に表現する筆力がある。わたしが宿木雪樹さんに抱く印象です。

フリーライターとして活動する宿木雪樹さん。筆名の「宿木」は、植物のヤドリギが由来です。他の樹に寄生しつつも、その樹を枯らすことなく共存するヤドリギの生き方に共感し、名付けたのだと言います。

ひとりで生きるために踏ん張ってきた彼女が、「誰かと支え合わなければ、自分ひとりの人生もまっとうできない」と気付いたタイミングでの出合いでした。

北海道で生まれ育ち、上京、そして北海道へのUターン。Skype越しに、たっぷりお話を伺いました。

本の世界に没入。早熟だった幼少期

──雪樹さんの発言や文章に触れるたび、頭の回転の良さや表現力に対し「素敵だな、すごいな」と思ってばかりいます。どのようなご家庭で育ったのでしょうか。

雪樹さん(以下、雪樹):大学教授の父、結婚前にイラストレーターをしていた母のもとに生まれ育ちました。あとは10歳上の姉がいます。父はゴリゴリのインテリ系、母は芸術系と、右脳左脳の遺伝子を共にもらえたのかもしれません。

特に私のアイデンティティに強く影響を与えたのが、父の書斎です。父の本棚には小説から専門書まで本がずらりと並んでいました。わたしは幼児期からその本をむさぼり読んでいましたね。

──かなり早熟ですね! 当時好きだった作品、憶えていますか?

雪樹:ミヒャエル・エンデの作品や「星の王子様」、「赤毛のアン」、「若草物語」……加えて大人が読むような小説も読んでいました。本の世界に没入するのが当時から好きでしたね。片田舎で育ったので、娯楽があまりなかったのもあるかもしれません。

──お母さんはどんな方でしたか?

雪樹:絵に描いたような専業主婦で、感覚も生き方も父親に判断をすべて任せているように見えていました。「三歩下がる」妻ですね。優秀な主婦だと思います。

──雪樹さんはどちらに似ていると思われますか?

雪樹:年を重ねるごとに父と似てきていると感じますね。父はとても賢い人なのですが、優秀だからこそ「できない人を理解できない」一面があって。わたしも姉も、「なんでそんなことができないのか」と訊かれて育ったんです。

ただ、そうした疑問が浮かぶのは、自分が「こうしたい」と思うことがあり、そこに向かって努力してきた自分がいるからだったんだなと今はわかるようになりました。

一方で、母はマンガ「凪のお暇」の凪に似たタイプです。誰に対しても過剰に空気を読むにも関わらず、相手が本当に求めているものの理解にまでは至っていない、といいますか。ただ、両親とも……特に父がですが、空気が読めないのは共通していますね。わたしは空気が読めないサラブレッドです(笑)

──亭主関白家庭の両親に対して、どう感じていましたか?

雪樹:母が幸せそうに見えなかった。母はすぐ丸く収めようと逃げの方向にエネルギーを発揮してしまうので、父が高圧的になればなるほど母が言いなりになっちゃう悪循環に陥っていたんです。「こうはなりたくない」「一生独身がいい、こんな生活絶対送りたくない」と思っていましたね。

──同じ女性だからこそ、釈然としない感覚があるのでしょうか。

雪樹:だと思います。でも、実は母はスルースキルが非常にある人で、娘たちが思うほどダメージやストレスを抱え込んでいなかったことが大人になってからわかったんですが。

──夫婦のことは夫婦にしかわからないものですね。ご家族それぞれと雪樹さんとの関係性はいかがでしたか?

雪樹:子ども時代は、正直あまり両親が好きではありませんでした。姉ともあまり話すことはなくて、全員ときちんと話せるようになったのは大人になってからなんです。親子だけではなく、両親の仲も良くなりましたね。

──お姉さんとあまり話してこなかったのは、年の差が影響していたんでしょうか。

雪樹:そうですね。姉から見て、自由奔放、気ままに生きるわたしは色々な意味で気に障る相手だったかもしれません。

親の育て方にも違いがあったんですよね。塾に行かされ、勉強ができないと価値がないとまで言われていた姉の頃と比べ、わたしのときは随分とゆるくなっていたので。姉妹間での育児の違いに、不満や憤りを感じていたのだろうと思います。

フランスで過ごした時間が支えた、孤独と違和感

──事前にいただいたプロフィールに、5歳の頃にパリに住んでいたことがあると書かれていました。

雪樹:父の仕事の都合で、1年間滞在しました。感じたことのないにおいや溢れている知らない言語など、感じるものが自分の五感のキャパシティを超えてしまって、吐いちゃうことがありましたね。

──感受性が豊かなタイプだった?

雪樹:そうですね。ルーブル美術館に圧倒される空間があって、見ていて「すごすぎる……」と倒れたことがあります。本を読んで泣くことも多かったです。

──幼少期に素晴らしい体験ができたんですね。

雪樹:今思うと、本当にそうだったなと思います。

──1年のパリ滞在期間を終えて、日本の小学校に入学。スムーズになじめましたか?

雪樹:全然ダメで、ここから長きにわたる苦労が始まりました。まずは、日本の学校とフランスで通っていた日本人向けの幼稚園のあり方の違いが大きかったです。これは文化の違いでもありますね。

通っている子どもは同じ日本人でも、フランスの幼稚園で出会った子たちは、英語が喋れたり、さまざまな国に住んだことがあったりと、多種多様でした。そのため、価値観の多様性をすでに理解している子もいたんですよね。でも、日本の学校は村社会の延長で、異質なものを排除しがちです。ここが本当に大きな差だと感じました。

──「はい、じゃあみんな今から~をしましょう」と同じことをさせるシーンが多いですよね。

雪樹:それが本当に肌に合わなくて。また、先生の立ち位置も違いましたね。

日本ではスクールカーストは生徒だけのもので、内側に先生は入ってきませんが、フランスでは子どもと同じ輪の中に先生がいました。大人として子どもと接するんですよ。「人はみんな違うから平等なんだ」と教わりましたね。集団行動を求めるのではなく、ひとりで立ち行動することを求められていた気がします。

──土台が違う。

雪樹:全然違う。そうした体験が背景にあり、かつ小学校入学時のわたしは、すでに今と変わらない雰囲気で話していたらしく、入学後すぐにクラスで浮いてしまったんです。

わたしが読んできた本をほかの子が読んでいないことも知らなかったし、世渡りの仕方も理解していなかった。だからまるで、ひとりだけ大人みたいというか、子どもたちの社会になじめなかったんです。

──「しっかりしている」と大人に評されるタイプだったんですね。

雪樹:先生から言われて実行委員を務めたこともありますね。で、クラスメイトには怖がられたり気味悪がられたりしていました。「こいつ、同じ子どもじゃないな」と思われていたんじゃないでしょうか。

折れずにいられたのは、フランスでの経験があったからだと思います。今ある価値観だけがすべてじゃないとすでに知っていたのが大きかったですね。あとは、ふたりだけいた友達の存在も大きかった。

──友達の定義がゆるい小学生低学年時期にして、「ふたりだけ」と言い切れるんですね。

雪樹:他の子は顔も名前ももう思い出せないし、そもそもほぼ会話することもなかったので。

──どんな子たちだったんですか?

雪樹:ひとりは唯一本を読んでいて、「読書」という共通言語がある子でした。もうひとりは、自分のなかの強い正義感を振りかざすタイプの子で、そのために浮いてしまっていた子でしたね。

その浮いた3人で、クラス替えも乗り越えながら卒業までの6年間を過ごしました。小2頃から書き始めた小説を読んでくれたのも、彼女たちですね。

──ここで「書く」が登場しましたね。

雪樹:文章を書く、創作することは、わたしの支えだったんです。誰かと親しくはなれないわたしにも、できることがあると信じられた。マイナスの自分を、プラスにはできなくてもゼロにできる手段だったんです。

──「誰か」でも「何か」でも、支えとなる存在との出会いがあるかないかは、特に10代には大きなことですね。

雪樹:変わりますね。出会いでいうと、小5の頃にお世話になっていた家庭教師のお兄さんもわたしのキーパーソンです。周りと話が合わない理由を自分なりにあれこれ考えていたなかで、年齢が原因なんじゃないかと思い至り、年上の話し相手を得るために家庭教師を呼んでもらったんです。

──結果、いかがでしたか?

雪樹:めちゃくちゃ話が合いました。わたしのことを評価してくれて、おもしろいとも言ってくれましたね。絵を描くこともずっと好きだったんですが、父のおさがりのパソコンがあったわたしに「Adobeだと綺麗な絵が描けるよ」と教えてくれたり、チャットの存在を教えてくれたり。

どんなにクラスで浮いても案外大丈夫だし、居場所は学校以外の場所にもあるんだよと暗に伝えてくれていたのかなと思います。あとは、「中学校はもっと悲惨だから、覚悟しとけよ」とも(笑)

──夢も希望もない……(笑)

雪樹:変に期待させられるより良かったなと思います(笑)

──将来の夢はありましたか?

雪樹:早く仕事をしたい、ばりばり働くキャリアウーマンになりたいと思っていました。大人の世界をユートピアだと思っていたんです。優秀な人が集まっているところだと孤独じゃなくなるだろう、わたしの美点に気づいて評価してもらいたい、実力主義な場所に行きたいって。

勉強面では中学、高校の理系科目に苦しめられるまでは大した苦労をしていなかったんですよね。また、父が本当に楽しそうに仕事をしている人で。ずっとその背中を見せてくれたことは、ありがたいことだったと思います。

友達関係の構築で悩みつづけた中高時代

──家庭教師のお兄さんが予言した「中学校はもっと悲惨」。中学入学後はもう付き合いがなかったのでしょうか。

雪樹:家庭教師に来た時点で大学3年生だったので、1年半くらいで家庭教師自体を彼が辞めてしまって終わりになりました。

──実際の中学校生活、いかがでしたか?

雪樹:8クラスあるマンモス校だったので、小学生からの付き合いのふたり以外にも友達を作らなきゃ、と気を張っていました。クラス内で、「あの子とあの子が仲良しだな」「わたしが入れるポジションはどこだろう」「え、その話題わからない、あとで調べておこう」と、かなり頭を働かせていましたね。

──うう……ストレス過多になりそうです……。

雪樹:コミュニケーションに対する苦手意識が強すぎて、正しい答えを出さないとハブかれてしまうんじゃないかという恐怖心が強いんですよ。なのに、空気を読みすぎて、結局は浮いてしまう。

家庭教師のお兄さんが「中学のいじめは残酷だ」と教えてくれたから、とにかくターゲットにならないように逃げまわっていたんです。いじめに加担せずに済み、ターゲットにもされない空気みたいなグループに何となく混ざることに、思考力のすべてを使っていました。

──友達のふたりとはいかがでしたか?

雪樹:彼女たちとは同じ部活に入って、そこで話せる関係性が続いていましたね。

ピアノが弾けるので、伴奏もしていました。「ピアノうまいね」と言われるのが嬉しくて。「ピアノが上手い子」ポジションに収まっていましたね。承認欲求をピアノで満たしていました。

──中学時代も執筆活動は続けていましたか?

雪樹:はい。ビジュアル系、L’Arc-en-Cielにハマって、曲をテーマに小説を書いたり、当時流行っていた夢小説を書いたりしていました。

──そして、受験。どのような高校に進学されましたか?

雪樹:四天王とされる高校のひとつを志望していたんですが、入れる割合が少ない学区外の高校だったこともあり、落ちてしまって。滑り止めで受けていた私立高校に入りました。国語や英語が得意だったのと、勉強の失敗経験がなかったので、油断していたんですよね。

──わざわざ学区外の高校を志望した理由は何ですか?

雪樹:私服校だったからです。制服が本当に嫌いで。結局落ちてしまったので、制服生活が続くことになったんですけど。

──高校生活は楽しめましたか?

雪樹:わたしと同じで受験に落ちてきている人が多い学校だったこともあり、失敗を責めないやさしい人が多い雰囲気だったんですね。だから、いじめの心配はなかったんです。でも、そこでもやっぱり友達はできなくて。

──大人になった今、その理由についてどう思われますか?

雪樹:人に興味がなかったからでしょうね。自分が褒められたい、1番になりたい自己愛が強くて、相手を理解しようとしたり興味を持ったりするのが苦手でした。

会話はできるんです。攻撃されるわけでも、無視をされるわけでもありませんでした。でも、相手に近づく理由は「わたしがさみしいから」であって、興味を抱いているわけではない。だから友達にはなれなくて、ひとりで落ち込んでいました。当時はこのことにはっきり思い至っていたわけではなく、諦めの境地に近かったですね。

──ふたりの友達との関係はどうなっていたのでしょうか。

雪樹:彼女たちとは高校で離れてしまい、連絡を取り合うこともなくなっていました。ふたりは引き続き同じ高校だったこともあり、「人生のルートが離れたな」「わたしがいなくても回っているんだな」と感じてしまい、孤独でしたね。

ただ、のちに聞いたところ、向こうは全然距離を取ったつもりはなかったらしく、「え、むしろ全然連絡してきてくれなかったじゃん」と言われたんですが。

──自己肯定感の低さが根底にあるのでしょうか。

雪樹:ありましたね。くじで当たってしまい出ることになったスピーチコンテストで、みんなに褒められたことがあるんです。だけど、素直に受け取れませんでした。「そうやって褒めてくれるけど、友達にはなってくれないじゃん」と思ってしまっていたんです。「所詮人としてダメなわたし」がずっと根っこの部分にありました。

──苦しさや孤独が続く高校生活のなかで、夢中になっていたこと、好きだったことはありますか?

雪樹:アルバイト代わりにモバオクをしていました。東京在住の叔母から、仕事の関係上、服を大量にもらえる環境にあったんです。自分の好みのものだけ残して、あとはきれいに写真を撮って売りさばいていました。当時好きだったゴスロリファッションを買う資本にしていたんです。パンクが少し入っているテイストのものが好きでしたね。

──マンガのNANAみたいな。

雪樹:NANAのファッション、好きでしたね……!ビジュアル的にあれは着られないと思っていましたが(笑)

──あのスタイルを持つ人は現実世界にそうそういないですよ……! 

初めての深い人付き合いは、痛みを伴った恋愛だった

──高校卒業後、進路はどうされたのでしょうか。

雪樹:まず頭にあったのは、「藝大に行きたい」でした。姉のときほどではないとはいえ、やっぱり父の価値観は勉強ができることで、「成績が悪いのはちょっとね」と言われていたんです。

そんな父の価値観に物申したい気持ちがあり、学歴とは違った観点でトップを取れる大学に行きたいと思いました。

──東京藝大、超難関ですよね。

雪樹:学部学科によって多少の違いはありますね。プレイヤーは超難関です。派閥や~門下生が入りやすいといった差もあります。わたしが目指したのは研究として音楽を学べる学科でした。プレイヤーと比べると比較的ハードルが低かったと思います。

──大学での上京、さらに藝大という進路。ご両親の反応はいかがでしたか。

雪樹:子どもの意志を尊重してくれる親だったので、驚かれはしましたが反対はされませんでした。ただ、個人的なプライドもあり、絶対現役で受からなきゃと奮起し、無事合格を果たせました。

──すごい……! 念願叶った東京での学生生活ですね。

雪樹:札幌に飽きていたのと、おこがましいけれど「誰とも話せない、理解してもらえない」「このタイミングで出られなかったら死ぬ」くらいに思っていたので、嬉しかったです。そこで、一目惚れした男性に告白し、付き合うことになりました。

──展開が早いですね……! それまで、誰かを好きになることはあったのですか?

雪樹:片想いはありました。ただ、その感情を分析してみると、「わたしのことを好きになってくれそうな人だから」「わたしを認めて評価してくれる人をそばに置いておきたい」なんですよね。だから、果たして「好き」と言えるのかな、と今では思うんですけれども。

自分のことを認めてくれそうな男性に対し、自分のお城の中に閉じ込めたくてたまらなくなっていたんです。束縛気質が激しくなるから、拒絶されたり逃げられたりしてしまう。当時は「モテない」と思っていたんですが、今思えばエゴで囲い込もうとすると逃げられるのは当たり前ですよね。

──でも、その彼とは付き合えたんですね。

雪樹:これまでも好きになるとすぐに告白していたんです。付き合ってから深く知り合っていけばいいと思っていたので。彼とはこれから4年間ずっと一緒に学ぶ間柄だったこともあり、「先に好きだって伝えてしまおう」と思って、玉砕覚悟で伝えたんですよ。だから、「じゃあ、付き合おうか」と言われてむしろびっくりしました。

──初めての両想い。浮かれますね……!

雪樹:浮かれましたね。一緒に授業を受けて、デートして、好きな音楽を教えてくれて、わたしの知らない知識を与えてくれて。メロメロでした。いつしか、他の子たちから離れてふたりの世界に入っていっていることにも気づいていませんでした。ただ、ハッピーでいられたのは最初の1年だけだったんです。

──というのは……。

雪樹:1年後の誕生日に、サプライズでディズニーランドのホテルを予約してくれたんです。花火も見えるいい部屋で、だけど後清算にされていて、「ごめん、持ち合わせがなかった。払える?」と言われて。

──えっ。

雪樹:戸惑ったんですが、何とか手持ちがあったので支払ったんです。そこから、すべてが変わってしまいました。デートに行っても支払いがわたしだったり、「ドライブに一緒に行きたいから」と言われて免許取得費用をわたしが支払ったり。授業に出てこなくなって、「代わりに出席を出しておいて」と頼まれたこともありました。

初めて別れたいと思ったのは、彼が隠れて他の女の子と泊まったことを知り、咎めたときですね。「ただの友達なのに、そう思うのはおまえの心が汚いからだ」「自己肯定感が低いからそう思うんだ」と言い返されて。でも、わたしは嫌だった。「そうか、わたしの低い人間レベルだと、彼の自由な行動を嫌だと思ってしまうんだ」と思い、「あなたに見合っていないから別れたい」と告げたんです。

──別れられましたか?

雪樹:うまく別れられませんでした。「あなたから好きだって言ったのに?」と返されてしまって。わたしの自己肯定感が低すぎたこともあり、共依存のような関係性が続きました。その後の数年間は、心身ともにボロボロになっていきましたね。自分をとにかく全否定されて、体重はどんどん減って。

──最終的に、どのように縁を切れたのでしょうか。

雪樹:彼が、いつの間にか別の子と付き合っていたんです。そのことを知ったタイミングで、ようやく別れられました。

生まれて初めて認めてくれた他人で、「彼となら結婚してもいいかな」と思ったこともある人です。自信がある状態でもう一度付き合えたら、行きつく先が違ったのかなと思うことはありますね。

パワハラ・セクハラに苦しんだ社会人デビュー

──彼との付き合いに苦しんでいた状態で、就職活動は行えていたのでしょうか

雪樹:きちんとはできていないですね。自分の将来を思い描けませんでした。北海道には帰りたくないし、かといって院に進むと彼がいるし。結局、大学で学んできたスキルを活かせるかなと思い、イベント企画も行う広告代理店に就職しました。

──以前、雪樹さんがnoteに書かれていたエッセイに、社会人時代にパワハラやセクハラを受けたと記されていました。これはこの会社でのことですか?

雪樹:そうです。女性社員は経理事務にしかいなくて、あとは男性ばかりの男社会な会社でした。若手があまりいなくて、わたしのすぐ上にあたる27歳の男性の先輩も、わたしが入社して半年くらいで辞めてしまって。男性にはパワハラ、女性のわたしにはパワハラ・セクハラがすごかったです。

入社3ヵ月くらいで、「地獄は終わりじゃなかったんだな」と悟りました。生活費のためだけに仕事をする感覚でした。けれども、残業時間がすごすぎるのに残業代が出なかったために、一見まともな給与も時給換算をしたら400円だった時期があるほどで。年功序列体制の会社だったので、新卒の安さだったのだろうとは思いますが……。

──労働環境が限りなくブラックで、パワハラ・セクハラも横行。支えがないですね。

雪樹:1番つらかったのは、「おかしい」と言えない圧力の強さでした。わたしがそうした空気を極度に察してしまい、屈しちゃう面もありはしたのですが……。

ネチネチ言うタイプの上司から3時間くらいやり込められたこともあります。「わたしができないからだ」「できるようになれば怒られないだろう」と、自責120%で受け止めていました。

──セクハラに関してはいかがでしょうか。

雪樹:自分が女として認識されていると思ったことがなかったため、正直脇は甘かったと思います。入社してから性に絡めた嫌味やからかいに接したので、「この気持ち悪さって何なんだ」と思いました。

──言い返すことはできましたか?

雪樹:一度も言い返せませんでした。むしろ、嫌な気持ちでいる自分がおかしいのかなと思っていました。経理の女性に1度相談したことがあったんです。

でも、彼女に「あるある」「若いと言われるよねー、わたしはもう言われないけど」「慣れたから無視できるけど」と言われてしまって。言い方がちょっとイラついている感じで、相談すべきことではなかったんだと思いました。

──女性に味方してもらえないのは、なおさらつらいです。

雪樹:振り返ってみて、彼女の気持ちに共感はできないけれど、想像はできるようになりました。セクハラされることが女の価値だとは一切思わないですけどね。

わたしにとどめを刺したのは、合同でプロジェクトを行っていたクライアント企業のリーダーからのセクハラでした。危うい発言もなく、とても人望のある人で、わたしの仕事ぶりを褒めてくれていた人です。議事録の文章を褒めてくれたことがとても嬉しくて。当時、会社を辞めようか悩んでいたわたしを、「まだがんばってみよう」と繋ぎ止めてくれた存在でした。

被害を受けたのは、誘われて行ったご飯でのことです。わたしは仕事の相談ができると思って誘いを受けたのですが、彼にあったのは下心だった。ホテルにも誘われたのですが、断って帰りました。そこで断られたのが不本意だったのか、「何で帰れるんですか」と訊かれて。「あ、これが初めてじゃないんだな。いろんな人に同じようなことをしているんだな」と察して鳥肌が立ちました。

──その後、お仕事での付き合いは……。

雪樹:それが、あんなに褒めてくれていたのに、プロジェクトから降ろされたんです。

──露骨ですね。

雪樹:「あなたと寝なければダメだったのか」と思いました。それまで褒めてくれていたことも、全部寝るための伏線だったのか。そう思うと、すべてがなぎ倒されてしまいました。

人としても仕事においても信用を勝ち得ている人だったので、誰に言っても信じてもらえないだろうと思い、noteに書くまで明かしたことはありません。恥ずかしさ……悔しさ……誰かに言うことで、その相手にそのときのことを想像されたくないという気持ちがありました。

──その後、数年を経てnoteに書けたきっかけは何だったのでしょうか。

雪樹:当時は、自分に価値があると信じられなかったんです。わたしがわたしを信じてあげられなかった。理不尽だろうと飲み込まなければならない、組織の中のわたしでしかなかったんです。

それが、フリーライターになり、自分で生きていける目途が立った。パートナーにも出会え、「今は幸せだ」と言える自分になれた。わたしがメッセージを送ることで、受け取った誰かの変化に繋がったらいいなと思うようになった。「今なら言えるな」、そう思い始めた矢先に、MeToo運動が背を押したんです。

──書いたあと、自身に変化はありましたか?

雪樹:とてもすっきりしました。書いたことで、自分の中にあのときの出来事が重たく残っていたことをあらためて自覚したんです。当時もぼろぼろ泣いてはいたんですが、どこかで受け入れきれずに蓋をして、忘れようとしていたんだと思います。

未来に続く鍵を得られた、パートナーとの出会い

──その後、1社目の会社を辞めたんですね。

雪樹:このままここで働き続けたら自殺してしまうと思い、退職しました。

──転職活動、いかがでしたか?

雪樹:面接にガンガン受かり、初めて「高いスキルを持っているのかもしれない」と気づきました。1社目では嫌な思いをたくさんしたんですが、仕事の実績としてはかなりおもしろいことをたくさん経験させてもらえていたんです。そのおかげで、企画書の作成など実技に高い評価をいただけました。

──2社目はどういった会社を選んだんでしょうか。

雪樹:学校法人です。相談していたエージェントには「残業がないところがいい」と言っていたのに、その学校は残業があるところだったので、「条件が違うけどいいの?」と言われました。でも、見学させてくれた職場に一目惚れして。面接相手だった部長さんも素敵で、他の選択肢が見えなくなるほどの魅力を感じたんです。

──どういったところに魅力を感じましたか?

雪樹:人の人生に関わる仕事であり、わたしも悩んでいた19歳、20歳というやわらかな時代を過ごす場所で働けるということですね。いじめの経験者など難しい子も多く、力になりたいと思いました。

──どんな仕事をされていたんですか?

雪樹:学校に通う生徒のマネジメント業です。講師をアサインしてカリキュラムを組んだり、退学する子が出ないようにケアをしたり。入社3年目には、新設学科のリーダーを務めることになりました。

ちなみに、ここの学生として出会ったのが、今のパートナーなんです。

──少女マンガ的な展開がきましたね。

雪樹:彼は学生時代から想いを寄せてくれていたらしく、それっぽい言葉をかけられることがありました。本気にしてはいなかったのですが、その想いは単なる憧れではなかったらしく、卒業後も粘り強くアプローチしてくれたんです。何度も断っていたのですが、「付き合えないのはわかったから、結婚してください」とまで言われて。

──熱い……!

雪樹:熱烈ですよね。答えを出せたのは、わたしの病気がきっかけです。右目が腫れて、光が痛くて。受診したところ、完治することのない「ベーチェット病」だと診断されました。原因はわかりません。職場の過度な精神的ストレスがきっかけだったのかもしれません。

とにかく安静が必要な病気で、悪くなると失明する可能性もあると聞かされ、休職を余儀なくされました。調べてみたら死に至ることもある病気だと知り、本当に絶望の淵にいましたね。そのとき、ずっとそばにいてくれたのが彼でした。

──彼の存在が、雪樹さんを救ってくれたんですね。

雪樹:正直、彼がいたから生き抜けたと思っています。責任もキャリアも全部投げ出してしまって、親からも助けられ迷惑をかけてしまった。「申し訳ない」ばかりが頭のなかにあったわたしに、「仕事を休むのってそんなに悪いことなの?大切なのは生きていることでしょ?」と言い、そばについていてくれたことに救われましたね。

ここから、「わたしひとりの人生には希望も何もないし、しんどいことしか残っていなさそうで生きるのが面倒くさいけれど、この人と一緒に生きていくなら希望があるかな。一緒に生きていくために、どうすればいいのかな」と未来志向で考えられるようになりました。幸い、病気も今は定期健診を受けてさえいれば大丈夫な状態に落ち着いています。

理想の終わり方から考える、理想の生き方

──休職期間を経たあと、どうされたのでしょうか。

雪樹:退職後、持病の症状の波がどれくらいなのかもわからなかったので、東京での転職はあまり考えられませんでしたね。また、組織に属すのが向いていないと判断し、何もスキルはないけれどフリーランスとして仕事をしようとクラウドソーシングに登録しました。ただ、最初はライターではなく、Adobeを使えたのでデザインから入ったんです。

──フリーランスデビューですね!

雪樹:ですが、まるっきりダメでした。最低月収は2,000円。これでは生きていけないよね、と。そこで、書くことが好きだったと思い出しました。日記やコラムのようなものを書き続けてはいたんです。「自由に書くのではなくお題をもらって書けばいいのかな」と思って、一歩を踏み出しました。

その後、ビジネスSNSのWantedlyに登録後、今のわたしに繋がるご縁をいただき、仕事が軌道に乗り始めました。ひとつのご縁から飛び火する形で、今に至ります。

──その後、雪樹さんは東京から札幌へとUターンしました。地元に戻った決断の背景についてお聞かせください。

雪樹:東京には人が集まっているので、出会いもチャンスもあります。でも、このままだと自分が破裂しちゃうなと思ったんです。出会いをコントロールするために、東京から距離を置くことにしました。

東京でバリバリ働いている自分の姿が、35歳までしか想像できなかったんですよ。おばあちゃんになったときのわたしは、お茶を飲んで、本を読んで、ピアノを弾いて、庭で花を育てていたい……そんなビジョンが浮かびました。でも、たとえば50歳になってからいきなり田舎に引っ越しても、その理想は実現できないんじゃないかと思ったんです。

あとは、パートナーの人生ですね。東京でキャリアを積んだあとは動きにくくなる可能性があるから、彼が若いうちに拠点を移してしまおうと。

──自分らしい生き方よりも、自分らしい老い方を考えたんですね。

雪樹:ずっと今だけを見ていたんです。未来のことは考えられなくて、「忙しすぎて死にたい」「明日死んでしまいたい」と考えていました。でも、「仕事に追われて死にたくはないな」と思って。だから、終わりから逆算して考えてみたんです。

きっかけは、パートナーからの「付き合わなくてもいいから結婚してください」の言葉ですね。誰かと一緒に生きていくなら、老いる日がいつか来る。「ここから先に道が繋がっているんだ、さあ、じゃあどうするの?」と思ったんです。

──未来がぱあっと開けたんですね。

雪樹:鍵が開きました。一生一緒に生きていきたいと思ったのは彼が初めて。振り返ってみて、人生本当にダメダメだなと思いますが、今は本当に幸せなんです。すべては今のための伏線だったのかなと思えるので、ダメダメな人生も良かったのかなと今は思えています。

東京と札幌を行き来する雪樹さん。理想の未来へ向かって、“今”を歩んでいます。(photo by Mikoto Sagara)

 

宿木雪樹さんの三原色

コンテンツや出来事など、今の宿木雪樹さんの元になる「三原色」を挙げてもらいました。

ミヒャエル・エンデ「果てしない物語」

読書好きである自分を認識したきっかけの一冊です。本を読む自分を客観視できました。

子どものころ読んだときは、文字からあふれる未知の世界のとりこになりました。大人になってから読んで、ここに描かれているメッセージは大人に向けたものなのだと気がつきます。

何度読んでも色褪せず、何度だって私に成長のきっかけをくれる、大切な一冊です。

モーリス・ラヴェル「ソナチネ」

ピアノを続け、音楽を愛するきっかけをくれた曲です。この曲を上手に弾きたいから、つまらない練習が続いてもあきらめませんでした。

ラヴェルの曲を聴くと胸が締め付けられるようで、音から風景や色、香りを思い浮かべます。ラヴェル自身にも強い興味を抱き、初めて人物の生涯を描いた本を手に取りました。

今はピアノの練習を本格的にはやっていませんが、指はこの曲を覚えています。大人になってから弾く2楽章は昔よりあたたかい音になっていて、やっぱりこの曲を愛する自分で良かったと思います。

失敗

少し大きな括りにはなってしまいますが、私を構成する大切なもののほとんどは、失敗経験から生まれているように思います。

大切な人を大切にできなかったこと、自分を信じてあげられなかったこと、継続できるキャパシティを軽んじて無理をして、周囲や自分を傷つけたこと。挙げたらきりがない失敗の積み重ねが、今の私です。

だからこそ、今、周囲にかけられる言葉があり、書けるものがあるなあとも感じます。失敗をして迷惑をかけたり、悲しませたりした分、これからの私が誰かの失敗に優しくありたいし、私のささやかな成功を還元したいです。

今回のミチイロビト

宿木雪樹さん
ライター、編集者。お茶と執筆をこよなく愛する。講談社C-Station、PR Table、Mirrativ MAGAZINEなどで執筆。北海道テレビ放送sodane一部記事編集。趣味の小説執筆では、2019年「KIRIN×note #あの夏に乾杯」公募コンテストにて特別賞受賞。茶葉・茶器販売の事業開始を目標に2020年株式会社宿木屋設立。

Twitter:@yuki62533
note:yadorigiya

ヘッダー・クレジット付き写真撮影:相良海琴
その他写真撮影・提供:宿木雪樹

▼宿木雪樹さんの「私の偏愛」はこちら

私の偏愛 vol.2◆部屋にこもりがちな私を支えるハーブティー

About The Author

卯岡若菜
1987年生まれのフリーライター。大学中退後、フルタイムバイトを経て結婚、妊娠出産。2児の母となる。子育てをしながら働ける仕事を転々とし、ライターとしての仕事を開始。生き方・働き方に興味関心を寄せている。
Follow :

Leave A Reply

*
*
* (公開されません)

Column

More