ミチイロ

自分から逃げたくて始めた芝居。声優・樋口あかりさんが行き着いた「わたし」

約 19 分

「わたし」って何だろう。

しっかり者? 努力家? 泣き虫? 女の子? 男の子?

「こうあらねばならない」と決めつけている自分がいたり、「こうありたい」と願う自分がいたり。はたまた、「こうあってほしい」と周りから期待される自分が「本当のわたし」になるように、無意識のうちにがんばっている人もいるかもしれません。

「わたし」から逃げたくて、芝居を始めた。声優・樋口あかりさんにオンラインでお話をうかがいました。

樋口あかりさんのミチイロ

フリーの声優として活動されている樋口あかりさん。個人サイトにアップされているサンプル音源の声は、まさに「色とりどり」の言葉が似合う多種多様さです。

子ども時代からの夢だった声優業。しかし、途中で声優をやめようとしたこともあるのだとあかりさんはいいます。今に至るミチイロをお聞きしました。

アニメのキャラクターのマネをしているときが、一番自由だった

──小さい頃は、どのような子どもでしたか?

内気で泣き虫でした。最初の記憶は4歳頃。幼稚園に入り、初めて母と離れるときに、別れるのが嫌で大号泣したんです。

──人見知りだった?

人見知りに加え、人が怖かったですね。周りの目が気になって仕方がない。「あかりちゃん、泣かんでええよ」って声をかけられるほど逆効果になり、「寄るな!」と思っていました。みんなの輪の中に入れなくて、端にいる子でしたね。外ではまったく自分を出せませんでした。いや、家でも我を出せていたわけでもないのですが……。

──家ではどういった感じだったのでしょうか。

母からダメ出しをされることが多かったです。母は気がものすごく強くて。隣に住んでいる母の大親友も圧が強いタイプで、何かと強い言葉を投げかけられていました。それで泣いてしまうと、また怒られて。

受け流せないタイプなんです。何か言われると、まずは全部受け止めちゃう。人が怖い意識は、ひょっとしたら受け止め続けたことでできあがった性格なのかもしれません。

母は本当に人を褒めないタイプで。褒められた記憶があるのは、7歳のときに生まれた妹の面倒を見ているとき、家に来ていた母の友人に「上の子が面倒見てくれるから助かってなあ」って言っていた、その言葉くらいですね。「この人、褒めるんや」って驚いたほどです。

──その1回だけですか。

本当にそれくらいです。今も褒めないですね。他人に寄り添うことが苦手で、自分のことに一生懸命なタイプなんだと感じています。

──お父さんはどういった方ですか?

父は存在感が希薄でした。妻が強い家庭あるあるなのかもしれませんが、「お父さんは消えます」みたいな感じで、家庭に関わらない。関われなかったのかもしれません。幼稚園の頃、珍しく私が起きている時間に帰宅した父に対して、わたしは「この人、誰?」って母に尋ねたらしいです。父ではなく「たまに家にいる人」感覚だったんですね。

母は父の愚痴を子どもに聞こえるところで言うタイプだったので、それもあって距離ができてしまっていたと思います。

──あかりさんは、父母どちら似だと思っていますか?

父ですね。妹も父似です。母みたいな強烈な人のそばにいると、仕方がないのかもしれません。父も私も内向的なタイプです。

──自分を出すのも苦手だとおっしゃられていましたね。

はい。ただ、アニメを見ているときだけは感情を解放できていました。銀河鉄道999が再放送されているときで、主人公になったつもりで見入っていたんです。キャラクターのマネをすることで、いつも押さえている感情を出せる。幼稚園でつらい思いをして帰ってきても、アニメを見ると気持ちを切り替えられて自由になれていたんですよ。

銀河鉄道999でメーテルが主人公を迎えに来るみたいに、わたしにもいつかそうやって誰かが迎えに来てくれて旅立てる日がくると思っていました。

──いつか王子様が迎えに来てくれるという、いわゆる「白馬の王子様」への憧れとは違う感覚なんでしょうか。

違いますね。当時、自分のことを女の子だと思っていなかったんです。銀河鉄道999に限らず、感情移入するのは男の子キャラクター。スカートも嫌で、ピンクや赤い色のものを与えられるのも嫌でした。

「声優」との出会い

──幼稚園時代からアニメが好きで、キャラクターのマネもしていた。声優になろうと思ったのはいつ頃だったのですか?

小5、11歳の頃ですね。声優の田中真弓さんが出ているアニメを見て、アニメ雑誌を買いだしたんです。そこで、「声優」という仕事を認識しました。「そうだよな、誰かが声を演じているんだよな」と気付いて、「じゃあ、なる」と。自分ではない人物になりたかったんです。

あと、学校で目立てない自分が、顔は出ないにしろ声と名前を出せて目立てる場所だとも思いました。

──目立ちたい気持ちはあった?

ありました。クラスで演劇をする機会があって、主役はいわゆるカースト上位の子がやるわけですよ。その演技を見て、「わたしのほうが何百倍もうまく演じられるのに」と思いながらも、手は挙げられなかった。

──立候補できなかったのはなぜでしょうか。

「できます!」って言ったところで、見ている側が「うまい」と思ってくれるかどうかは別問題じゃないですか。自分では「できる、うまい」と思っていても、「できないやん」って思われるのが怖いんです。これは今もですね。

──カーストの話が出ましたが、あかりさんはどんなタイプでしたか?

低学年のうちは良かったのですが、小5~6の頃にいじめに遭いました。思ったことをぱっと言ってしまうくせが、小5くらいから相手を傷つけてしまうようになってしまったんです。うまくオブラートに包んで言うことを周りの女の子が学んでいくなか、わたしは遅れていたんですね。

快活に言えちゃうタイプだったら、周りも笑いで終わらせてくれたのかもしれません。わたしは至極真面目なトーンで発言してしまうから、「それ、今言う?」と思われてしまったんでしょう。無視や仲間外れ、あとは上履きの中に砂を入れられるなど、漫画に出てくる古典的ないじめがありました。

──「周りの女の子たちが」とあったように、ザ・女子社会の難しさが出てくるのかなと感じるのが、小学校高学年だと思います。幼児期は自分を女子だと思っていなかったとおっしゃられましたが、男女差が表れてくる時期をどう過ごされていたのでしょうか。

男女が一緒に遊ばなくなっていったのは6年生くらいで、わたしは女子側になるわけです。でも、女子が盛り上がるアイドル話の良さが全然わからなくて、その「わかんない」を発しては水を差してしまっていたかもしれません。

自分自身の変化としては、第二次性徴を迎えて生理がきたときに、「やっぱり男にはなれんかったなあ」と思ったのを覚えています。ただ、わたしの場合は声優になると決めていたので、「声優になったら男を演じられる」と思えていたのが支えになっていました。

演劇部を2度にわたり立ち上げた

──中学校、部活動には入りましたか?

当初は陸上部に入りました。小学生時代、足が速かったんです。でも、入ってみたら遥かに足の速い子がいっぱいいて、得意だった短距離走で結果を出せなくなってしまいました。他の競技も向いていなかったりやりたくなかったりで、最後は嫌々部活に参加していたんです。得意だったことで結果が出せなくなるの、めっちゃ大きな挫折でしたね。

──3年間続けたんですか?

いえ、辞めました。13歳のとき、演劇部を立ち上げたんです。

──部活の立ち上げですか。積極性がありますね。

きっかけは文化祭でした。学年で4種類の内容があって、クラス関係なくやりたいものを選べたんです。わたしはそのうちの紙芝居グループに参加しました。すると、同じく演じることが好きな子が集まっていたんです。「声優になりたい」と言っている子とも友達になれて、同じものが好きなメンバー同士、話が盛り上がったんですね。その様子を見て、紙芝居を担当していた先生が、「演劇部作らへん?」と言い出したんです。

──いいですね……!

中学演劇部時代は、当時のわたしにとって、これまで生きてきて1番幸せな時期でした。メンバーのうち、わたしが部長を担い、一生懸命活動していましたね。

部長をやったり、主役を演じたりし始めたら、いじめてきていた人の態度が変わったんです。中2の発表会を終えたあと、「すごかったよー!」って言われて。態度の変わりように、正直「何やこれ、気持ち悪いな」と思いましたね。

──その後、受験を迎えます。高校生活はいかがでしたか。

母が「どこにも受からんかったらあかんから、受けられるところ全部受けや」と言ったので、4校受験し、3校合格。家に近かった商業高校を選びました。

必ずクラブに入らなければならなかったのですが、演劇部がなかったんです。そこで、わたしは声優になるための練習をしたいのに、部活動に入らなければならないのかと担任に相談しました。すると、「じゃあ、演劇部を作って入部したことにしといたら?」と返されたんです。部としての枠を作るには、部員がひとりでもいいらしくて。

──緩いですね。そして、まさかの再び部活立ち上げ。

そうなんです。結果、クラスで仲良くなった子が「漫画やアニメ、演技に興味がある」「やってみたい」と言い出して、ふたりで活動することになりました。すると、先生から「高3のふたりが興味あるって言ってるけど、入れてええか」と尋ねられて、4人に。

そのまま1年を終え、高2になったら、後輩がクラスの子も連れて入ってくれて、また4人に戻りました。その後輩の子は、芝居がめちゃくちゃうまくて。「ガラスの仮面、面白いですよ」と教えてもらって、初めて漫画を読みました。そこで、芝居への意識が変わりました。

──どのような変化ですか?

たとえば、「そんな人とは思わなかった」というセリフを言うとします。この同じセリフでも、言われた相手の人はどういう人なのか、このセリフが出るまでのふたりの関係性はどういうものなのか、場所は? 距離は? と考えることが山ほどあると気づかされたんです。

それまで、わたしは何となく勘で演じているにすぎず、その勘が良かったからうまく見えていただけなんだと痛感しました。大味な芝居だったんです。でも、実際の感情は喜怒哀楽の4種類だけじゃなく、何百種類もあるんですよね。

勧めてくれた後輩は、「ガラスの仮面」を小学校低学年の頃から読んでいて、芝居とはどういうものなのかがわかっていたんです。だから、演技がこんなにもうまいんだと知り、その差が悔しくて。絶対にこいつよりうまくなってやると思わされました。

──大きな出会いですね。

その後輩は、実は高校を選ぶときに二択で迷ったらしいんです。決定打になったのは、「演劇部があるから」。先生に言われて作っていなければ、なかった出会いでした。

求められる「女性」への拒否感

──高校卒業後はどうされたのでしょうか。

「ガラスの仮面」を読んで舞台での俳優修業が必要だと思っていたので、舞台芸術学院に行こうと思っていました。東京で暮らしていた母の大親友が「うちに来て通学してもいいよ」と言ってくれて、申込書も出して受かっていたんです。それなのに、父が反対しました。これまで私の人生に一切関わってこなかったくせに、いきなり父親面された気がしましたね。

まさか父に口出しされるなんてと、めちゃくちゃ腹が立ちました。父の言い分は「他人に迷惑をかけてやるものじゃない。やるなら自分の力でやれ」だったので、まっとうではあったのですが。

──では、上京は叶わず。

舞台芸術学院は諦めました。行かないなら声優になるために養成所に入らなきゃ、養成所に入るためにはお金がいる、バイトしなきゃ、と動き始めました。

一方で、ミュージカルもやりたいと思っていたので、せめてダンスだけでも習おうと名古屋の学校に通い始めました。母が「2年間くらいなら学費出したるわ」と言ってくれたんですが、通学片道2時間が堪えたのと、ダンスが下手だったのもあり、1年経たないくらいで辞めてしまいました。

──再び養成所に入るための資金作りに戻ったんですね。

はい。22歳で上京を果たし、声優養成所(勝田声優学院)に入りました。ただ、これも1年経たずに辞めてしまったんです。

──せっかく入ったのに。

はい。養成所の方針が、「売れる声優になる」ことで、女のわたしの目指すべき先は、これから業界で売れるであろうアイドル声優だったんです。表現の正解も決められていて、それがものすごくストレスで。

──あかりさんとしては男性役を演じたかったわけですし。

そうなんです。授業内では、男性役は男性が、女性役は女性が演じるものと、はなから決まっていました。そして、主役を演じるのは先生に気に入られている子で、どのクラスの子もわかりやすく「多くの男性が好みそうな女子」。前提として女子感が求められているんだなと感じました。一方で見た目よりも芝居が大事だと教えてくれる先生もいたのですが……。

ただ、今になって思うと、学校側の考えも理解はできます。クライアントの要求に応えること、クライアントの満足感が、自分の納得いく芝居をすることよりも現場では重要視されるんだと。その後、実際にアイドル声優が増えたことからも、先見の明があったんだなと思いますね。

──養成所をやめたあとは、どうされたのでしょうか。

しばらくバイトをしながらふらふらしていました。それでも、やっぱり芝居がしたくて。東京にはアマチュア劇団がたくさんあるので、仕事にできなくとも続けられると思い、3つくらいの劇団を見学しに行きました。ただ、どこもしっくりこなくて。芝居の質をストイックに求められる環境ではなかったんです。プロじゃない場でやっていても仕方がないんだと理解しました。

そこで、「アイドル声優になっても構わない、やっぱりプロになりたい!」と思い、腹を決めて二つ目の養成所となる俳協ボイスアクターズスタジオを受けました。結果、採用されて事務所所属になります。ただ、なかなかうまくいかない。

当時のわたしは髪が短く、自分のこれまでのスタイルのままだったんです。服装はTシャツとデニムといったラフなものが基本。現場で「何、あなた、大丈夫なの?」と思われるような見た目でした。それでも、実力を見せたら文句は言われないだろうと思っていたんです。でも、そうではなかった。

──実力さえあればいいわけではなかったのですか。

プロなので、最低限きちんと仕事ができるのは当然なんですよね。だから、現場の飲み会を見て、たくさんの人とコミュニケーションを取るのが上手な人達を観察し、容姿や話し方など、演技力以外の部分についても積極的に学ぶようになりました。

観察していると、コミュニケーション力に長けた女性声優にもいろいろなタイプがいることがわかりました。そのなかで、おしとやかで控えめ、聴き上手のお姉さん系ならマネできるかもしれないと思って、抵抗感を抱きつつも試しにやり始めてみたんです。服装もなるべくスカートを履くようにして、「大人の女性」になりきった。すると、おもしろいくらいに周囲の対応が変わって、スムーズに回り始めたんです。

──声優としての実力が大きく変わったわけではないのに。

「人って、見た目から得る情報の度合いが大きいんやな」と体感しました。8~9割がた決まるといっても過言ではないのかもしれません。

決意の廃業から一転、フリーへ

2012年。フリーになったあとのあかりさん

──デビュー後はスムーズにキャリアを重ねられたのでしょうか。

最初の事務所(東京俳優生活協同組合)で5年間、吹き替え・アニメ・ゲーム・ナレーション等、たくさんの仕事を経験させて頂きました。その後、転機があって事務所を移籍。そこで2年間お世話になった後、フリーになりました。

──移籍後、独立されたのはなぜですか?

移籍先では色々ありまして。ちょっとその部分について話すと長くなるので、割愛させていただきたいのですが(笑)、結局のところは自分の力不足を心底痛感したことがきっかけですね。そのため、34歳のときに事務所をやめる決意をしたんです。これは移籍ではなく、声優廃業を意味する「やめる」でした。

──思い切りましたね。

色んなことが上手くいかなくて、どれだけ努力しても全然成果が出なくて。ああ、きっと自分はこの業界に向いていないんだなと。これはもう声優をやめるべきなんだろうなと思ったんですよね。

そして、こんなに苦しい思いをしているのに一向に報われないなんて、なんか自分、不幸せだな、可哀想だなとも思いました。私は幸せになりたい。30代中盤なら、まだギリギリ人生の方向転換ができるんじゃないだろうか。もっと自分に合った業界が、どこかにあるんじゃないだろうか。そんな思いもあって、決断に至ったんですよね。決断した時は気分爽快でした。「ああ、これで私、幸せになれる!清々したー!」って(笑)

にも関わらず、やめた次の日に電話がかかってきたんです。「樋口さん、事務所をやめたんですよね。主役の仕事があるんですけど」って。

──すごい。次の日に。

「ええっ?」でしたよね。新しい人生を始めようと思って、「昔、弁護士になるのもいいなと思ったことがあったから」と、法律事務所のバイト面接を受けることにしていたんです。面接する日にちもすでに決まっていました。

──本当に文字通り全然違う世界に行くつもりだったんですね。

はい。フリーで声優として続けようとは考えてもいなかったのに、ディレクターさんの明るいお声がけについ話をお受けしてしまいました。芝居はやっぱりやれるならやりたいんですよね。だから、いただいた仕事を受けつつバイトをして、フェードアウトする流れでいいかと。

──積極的に営業活動をするわけではなくて。

お話をいただいて、スケジュールが空いていれば全てお引き受けしていくというスタンスですね。仕事の依頼は一度で終わらず、気が付いたら忙しくなっていました。

あとから聞いた話ですが、実は前の事務所時代から、吹き替え業界では「うまい人がいるよ」と話題に上っていたらしいんです。「じゃあ、どうして今まで仕事が来なかったんだろう?」と思いましたけど……。実際はどうだったんでしょうね?はっきりとは分かりません。
事務所やマネージャーさんとの相性なども多少関係しているとは思いますが、もしかしたら、単純にわたしが「運を掴めていなかった」だけなのかもしれません。

やってもやらなくてもいい。思っても思わなくてもいい。

──現在についてお聞かせください。

声優の仕事は、能力が使えてお役に立てる現場がある限り、続けていこうと思っています。長年やってきて、仕事は自分でコントロールできないものだとわかったんです。自分の芝居を欲してくれる人がいないと仕事としては成り立たない。演技力だけを純粋に磨き上げればいいわけではないんですね。

──肩の力が抜けたように感じますね。

実際に抜けたんです。約2年前、コーチングを受けたんですよ。目的は、もっと自分のレベルを上げて名前を売り、仕事の数を増やすことでした。「もっと名前を売るべき」「もっとみんなに好かれるべき」など、「やるべきこと、やらなければいけないこと」がたくさんあった。しかし、コーチに言われたのは、「やってもやらなくてもいい。思っても思わなくてもいい」でした。目から鱗が落ちましたね。「自分で決められるの? がんばってやらなきゃいけないんじゃないの?」と、今まで作り上げてきた価値観がガラガラと崩れる気がしたんです。「嫌なことでもしなければダメ」思考がベースでしたからね。仕事も、名が売れるよう努力すべきだと思っていた。もう、肩の力が抜けるどころか、肩がなくなったぐらい楽になりました。

──つらいことを耐えてやり抜かねばという感覚、わかります。

楽だと感じていることに罪悪感があるんですよね。つらいことを積み上げた先にしか成長がないと思っている。でも、「やりたくないことはやらない」を実行し始めてから、わたしの中で色々と良い変化が起こったんです。扉が開いて、あるべきところ、本来わたしが持って生まれてきたものに戻っていっている感覚です。

とはいえ、40年以上も付き合ってきた自分なので、今もときどき以前の自分が顔を出すことはあるんですけどね。

あと、楽になったことがもうひとつあります。「わたしらしさ」からの解放です。

──どういう意味でしょうか。

忌避感情があった女性らしさを受け入れられたんです。最初の事務所に属していた頃にお姉さんキャラを演じたときも、本音としては嫌でした。相手が自分をどう見ているかを汲み取って、好まれるキャラクターを演じることがストレスだったんです。

ただ、「演じる」のは、何もわたしではない「全くの別人」を演じるわけではありません。わたしのなかにはたくさんのわたしがいて、そのうちのひとりをクローズアップする感覚、といいますか。ずっと演じていた「お姉さんキャラ」も、実は全くの別人ではなく、「自分の一部」だったわけなんですよね。

それに気がついた時、今までの演技に対する認識がガラッと変わり、同時に、やっと真正面から自分と向き合うことができたんじゃないかなと思いました。「自分から逃げるための芝居」ではなく、純粋に「生きるための芝居」に変化していったような気がします。

そうしてさまざまなキャラクターを演じて「いろいろな自分」を外に出していったからか、わたしの中に住んでいる全員が納得したんじゃないかな。気が済んだのかもしれません。

自分は男だと思っていたり、女性を求められることに拒否反応を示したりしていましたが、かといってわたしは男でもないなと思っています。あるとき、「Xジェンダー」という言葉をを知り、私と同じような考えや悩みを持っている人たちと交流するようになりました。皆さんとの対話の機会を得て話をしていくうちに、すとんと納得したんです。「ああ、決めなくてもいいんだ」と思って。

──両方の側面があっていいわけですよね。

「あなたは女だから」「男だから」と性別による役割を求められるのがずっとしんどかったですね。どっちかにならなきゃいけない悩みは、わたしの場合は声優をしていたからこそ大きかったのかもしれません。自己ブランドとして「わたしはこう」というわかりやすいイメージを求められる商売なので。

──アイドル声優という括りもそのひとつですね。今後、あかりさんは何をしていこうと思っていますか?

やっぱり他人の人生を体感したい。芝居が好きなんです。声優としていつまで仕事を続けられるのかはわかりません。むしろ、声優以外のフィールドでの活動も考えています。自分には何ができるかな、得てきた経験をどう活かせば人の役に立てるだろう。まだ、道は定まっていません。

※本記事の写真は、すべてご本人より提供

樋口あかりさんの三原色

コンテンツや出来事など、今のあかりさんの元になる「三原色」を挙げてもらいました。

銀河鉄道999

幼稚園時代に再放送のアニメを見て夢中になりました。主人公になりきってマネをしているときは、ふだん我慢している自分の感情が自由に出せて気持ち良かったですね。「いつかメーテルみたいな人が現れるから、そうしたら旅に出る」と思っていました。

部活

中学・高校時代の演劇部は、それまでのわたしにとって、初めて幸せを感じられた場所でした。と同時に「芝居への向き合い方」を知り、その後の私を形成する大事な基盤となりました。高校で出会った芝居の上手い後輩とは、今も付き合いがあります。後輩ほど芝居に対してストイックな人には、プロになったあともそう出会えてはいません。熱量が同じだからこそ語り合える楽しさがあるのですが、なかなか難しいものだなと思います。

コーチング

「こうでなければならない」という強制思考で生きてきていたわたしに、コーチが「やってもやらなくてもいい」という言葉を贈ってくれました。
わたしの中に長いこと巣食っていた根本的な問題を取り除く、大きなキッカケとなった言葉です。

おかげで人生がぐんと生きやすくなったと感じています。

今回のミチイロビト

樋口あかりさん

1976年生まれ。三重県出身。幼少期よりアニメや吹き替え映画に慣れ親しみ、声の世界を目指すようになる。
現在はフリーとして活動しており、海外ドラマ・映画の吹き替え、NHK番組のナレーションをよく担当している。アニメ・ゲームボイス等でも幅広く活動中。PARCO(全国)のエスカレーターナレーションを担当している。

公式HP/https://akarihiguchi.com

Twitter/@AkariHiguchi

※ 声優養成所ストーリー/初めて通った声優養成所/老舗のスパルタ教育(自身で執筆)

About The Author

卯岡若菜
1987年生まれのフリーライター。大学中退後、フルタイムバイトを経て結婚、妊娠出産。2児の母となる。子育てをしながら働ける仕事を転々とし、ライターとしての仕事を開始。生き方・働き方に興味関心を寄せている。
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