ミチイロ

新しい自分に出会うため、本来の自分を取り戻すため。なつこさんが大切にしたのは、好奇心と行動力。

約 31 分

自由にのびのび生きていきたい自分と、空気を読んでおくべきだという判断を下してしまう自分。どちらも、誰もが持っている「自分」です。

しかし、この「べきだ」という自分が増えれば増えるほど、本来の自分が押しやられ、生きづらさや孤独感が生まれるのかもしれません。

持ち前の好奇心と行動力で「常識」や「思い込み」の枠から羽ばたいた、なつこさん。好きなことに全力投球しながら、三人のお子さんを育てている母親でもあります。今回は、なつこさんおすすめのカフェでお話をうかがいました。

なつこさんのミチイロ

KOSHIGAYA PHOTOWALKで参加者が撮影した一枚
KOSHIGAYA PHOTOWALKで参加者が撮影した一枚

細い腕に抱える、見るからに重そうな一眼レフカメラ。なつこさんに出会ったのは、埼玉県越谷市にある「はかり屋」で行われたイベント「KOSHIGAYA PHOTOWALK」でした。

ファインダーを覗く真剣なまなざしと、カメラを向けていないときに見せるやわらかな笑顔。ふたつの表情の差が魅力的な女性です。

現在、なつこさんはカメラマンとして働いていた経験を活かし、KOSHIGAYA PHOTOWALKに講師として参加するほか、無垢の端材を活かした木製アクセサリー「kusabi.」での作家活動、アパレルショップでの販売員バイトと精力的に活動しています。さらに、家庭に戻れば三人の子どもたちを育てるお母さんとしての一面も。

多様な居場所を持つなつこさんが今に至るまでには、生来の好奇心による環境の変化がありました。

「教師」に憧れていた小学生は、中学で先生に幻滅した

なつこさん・スイーツ
「長話できますよ」と教えてくれたカフェで5時間話し続けた

──小学生時代は、どのようなお子さんでしたか?

なつこさん(以下、なつこ):いわゆる「優等生」扱いされるタイプの子どもだったのかなと思います。1年生からずっと学級委員長で、5年生で転校してきたあともそのポジションは変わりませんでした。

自分でいうのは憚られるんですが、勉強も運動も得意でしたね。文武両道タイプで、大人からは神童と呼ばれてしまうタイプ。そして、大人から自分がどう見えているのかを子どもながらにちゃんと理解している良くも悪くも頭が回る子どもでした。

小学生時代の将来の夢は6年間通して学校の先生だったんです。特に、5、6年生の頃の担任の男性教諭が本当にいい先生で。先生になりたいという夢を知った先生が、ある日、採点用のペンをくれたんです。それで、放課後に実際にテストの採点をやらせてもらっていたことも。

公になったら当時でも問題になるようなことだったと思うんですが…。世間のいう“常識”の枠組みを超えて、子どもである自分を尊重してもらえた出来事です。とてもうれしかったですね。

その先生は、先日定年退職を迎えられました。お祝いする会を設け、再会できたんです。子育ての悩みに対して相談したら、「どんと構えておけばいい。なつこの子どもだから絶対に大丈夫だ」とおっしゃってくださって。泣いちゃいますよね。うれしかったです。

──しっかり者の雰囲気を感じていますが、それは子どもの頃からだったんですね。

なつこ:第一印象ではしっかり者と思われがちなんですが、実際には結構抜けているんですよ(笑)特に、今は3人の子育て中なので、子どものことで抜けることが多くて。提出物の管理や役員の仕事も、子どもたちやママ友に助けてもらいながら何とかこなしています。

──わたしも2児の母なので、とてもよくわかります(笑)育ったご家庭は何人家族だったのでしょうか。

団塊の世代を代表するような仕事一筋のサラリーマンの父、末っ子が小学生に上がったタイミングで専業主婦からパート主婦になった母、三つ下の弟、五歳年上の兄の5人家族です。当時の日本のベーシックな家族像を地でいく感じの家庭でしたね。世間体を気にして社会規範を守ることを重視する親の元で育ちました。

夫婦仲がすこぶる悪いというわけではないのですが、母は理屈より感情が優位のタイプで、ヒステリーを起こすことがしばしばありました。こういった家庭は珍しくないのではないかと思いますが、家庭に関しては母の意見が強くて、父は基本的に母に任せてノータッチだったように感じています。

母は完璧主義的なところがあり、彼女にとっての常識のものさしが非常に頑丈なんです。完璧が基準なので、テストで100点を取っても褒められませんでした。母から直接言われたわけではないですし、母にも自覚はないようなんですが、言われている言葉を総合して考えると、要は「完璧であれ」ということになるんですね。

考え方や価値観に反発を覚えることもたくさんある一方で、今のわたしに大きな影響を与えているなとも感じています。特に、母になった今、母のようにならないようにしようという意識と、当時の母も子育てに必死だっただけなのかもしれないなというふたつの思いがありますね。とはいえ、母に賛同するわけではなく、わたしは子どもを認める子育てをしたいなと思っていますが。

──母と娘とは、ぶつかるときには強くぶつかりますもんね。お母さまに反発心を抱くのは、思春期に突入してから顕著になりましたか?

なつこ:かもしれません。親への反発心もですが、中学生になってからは世間一般の大人が納得する「いい子」から逸脱しようとしていましたね。

中学では、まず1年生のときの担任の先生が大人としても先生としても尊敬できない人で、教師という仕事に悪感情を持ってしまったんです。言い方が悪くなりますが、なあなあに仕事をしているような定年間近の先生で。今思うと短絡的だと思わないでもないんですが、この担任に出会って、わたしは先生の夢を捨ててしまいました。

この先生の言動には本当に納得がいかなくて。「おまえらの人生なんてちっぽけなんだよ」とまで公言していたんですよ。当時ここでもまだ学級委員長のポジションを与えられていたわたしは、思いを同じくする友人5~6人で授業をボイコットして、校長先生に直訴しにも行きました。……ただ、間が悪く校長先生が不在で、相手をしてくれたのは教頭先生だったんですが(笑)

──まともに取り合ってもらえたのでしょうか。

なつこ:反省文を書かされましたよ(笑)でも、そこでも原稿用紙4枚に渡り、「いかに担任教師が間違っているのか」をとうとうと綴って突きつけました。学校側がどう捉えたのかはわかりませんが、翌年、その先生は担任を外されたんです。少しかわいそうだったかもしれませんが、間違ったことをしたとは思っていません。ただ、今思うと、ちょっと我ながら恐ろしい子どもですね(笑)

──正義感が強いタイプだったんですね。

なつこ:間違っていると思うことは許せないタイプでした。子どもだからといって、人権を軽視されるようなことは我慢できなかったんです。今でも当時の憤りを強く憶えているくらいですから。

ただ、真面目に校則を守っているタイプではなくて。スカートを折って丈を短くしてみたり、髪を染めてみたりしていました。わたしのなかの「悪いこと」は人権軽視などであって、校則破りは悪いことではなかったんですよね(笑)

なつこさん
撮影者:KICK(DOPE CLOUD FILM)

──ご両親、大丈夫だったんですか。

なつこ:親もですが、クラブがダメでした。バドミントン部に入っていたんですが、「すぐに直さないと試合に出さない」と言われてしまって。部活動命だったので、即「はい、直します」と。

──そこは素直に。

なつこ:関東大会にも出場するくらい、当時の埼玉ではかなり強い部で、本当に力を入れていましたからね。試合に出られないのは嫌だったので。じゃあ校則を破るなっていう話なんですけれど、やってみないと気が済まなかったんです。やっぱりダメでしたが(笑)

──当時、勉強はいかがでしたか?

なつこ:部活動命だったので、授業で爆睡してしまったり、提出物を期限までに出せなかったりしていました。だから通知表の評価はそこそこでしたね。なのに、実力テストではちゃっかりトップを取るような、はたから見ていると嫌な感じの子だったかな(笑)秋に部活動を引退したあとは勉強にギアチェンジし、そこからは一気に勉強に力を注ぎました。切り替えると早いんです。

──高校はどういったところに進まれたのですか?

なつこ:都内の私立高校です。スポーツ推薦で進学することもできたんですが、スパルタすぎる部活動命のようなスポーツ熱は中学で燃え尽きてしまって。理不尽な校則がない、自由な環境のなかで高校生活を謳歌できるところに行きたいなと思いました。

自分の選択肢を最大限増やせるよう、とにかく勉強をがんばっていましたね。自分の未来を自分で掴むという意識が生まれたのは、この受験からです。結果、県内一の学力を誇る高校の推薦が決まりました。

──すごい。

なつこ:なのに、わたしはその高校には進まなかったんです。

──え、なぜですか?

なつこ:受験シーズン直前になって、自分の理想の高校に出会ってしまったんです。当時人気だった、都内で有名な高校生たちをピックアップして発信している雑誌に載っていて。髪色も明るくて、女子はメイクもバッチリしていて。それなのに、偏差値は都内でもトップクラス。こんな先輩たちがいる高校に行きたいと強く思いました。

──ご両親、よく許しましたね。イメージでは反対されそうですが。

なつこ:反対されましたよ……! だから、「やることをきちんとやった上で好きなことをやっている人たちがいっぱいいるんだ」とプレゼンをして説得にあたりました。結果、希望する高校を受験できましたが、推薦を蹴るのは本当はご法度で、方々に相当ご迷惑をかけてしまったそうです。でも、大人の事情に忖度して自分の意思を諦めることはできませんでしたね。

親に関していうと、入学後、他の生徒の親と話すなかで感化された部分もあったみたいです。社長令嬢など、親が経営者だという子も多い学校だったんですが、そういう子たちの親って柔軟な思考を持っている人が多くて。けじめはしっかりしているけれど、常識には捉われないところがありました。特に母親はカルチャーショックだったみたいです。今も年賀状のやり取りを続けている、本当に得難い出会いに恵まれた高校生活でした。

お互いの自分らしさを尊重できる環境が、心地よかった

──念願叶い入れた高校。いかがでしたか?

なつこ:本当に楽しかったです。わたし、中学までは思ったままに発言したり行動したりできないところがあったんです。物事が見えすぎてしまう子どもだったといいますか。たとえば、小学生の頃の授業では、わたしばかりが手を挙げていたら先生もひいきしているみたいになって困るだろうなとか考えてしまって、周りの空気を読んで挙手するかしないかを判断するようなところがあったんです。

能力はひけらかさないほうがいい、出る杭は打たれる、みたいな日本人的な感覚が幼いうちからあったんですよね。中学生になったころには、思ったことを言葉にすること自体ができないことになってしまい、誰にも共感してもらえないであろう居心地の悪さみたいなものを抱えていました。

友達は多かったんですよ。だけど、周囲とのバランスを考えながら動くあまり、無邪気に心底共感して思いを分かち合うことができませんでした。

なつこさん

その想いが覆されたのが、かなり悪い点数を取ってしまった高校に入って最初の中間テストです。勉強をしていかなかったから当たり前なんですけど、中学まではそれでもいい点数が取れてしまっていたんですね。「勉強しなかったら悪い結果になるんだ」ということが、とてもうれしかったな。ただ、そのまま勉強しない子になったわけではなくて、次に行われた全国統一模擬試験ではトップクラスの成績を収めました。「やればできる子」だと思ってもらえたんじゃないかなと思います。

安心して埋没できるのって、居心地が良いんだなと思いました。高校からは、「ただ勉強ができること」が特別なステータスでもなくなりましたね。

──本来の力がきちんと結果に出ることに安心されたのですね。

なつこ:「これが正しい姿だよね」と思いました。そして、「勉強は大切だけどガリ勉は嫌」という価値観を共有できる子がたくさんいたことも、わたしにとってプラスでした。遊びと勉強を両立してこそだよね、という考え方をしている子が多かったんです。

校則がないから、金髪にして日焼けサロンに行って、ルーズソックスを履いて、みたいな派手な格好でも怒られません。そして、そんな派手な格好をしたわたしたちが、受験前になるとファミレスで一心不乱に勉強している、みたいな。

──見た目が派手ではない子もいましたか?

なつこ:黒髪で化粧もしていないような子もいましたよ。見た目は大きく違うのに、分断されず仲が良かったのも特徴でした。

多様性、個の尊重といった価値観を身に着けた時期ですね。見た目の枠に捉われず、さまざまな面や価値観を併せ持つ人間でありたいと思っていました。やるべきことはきちんとやる。他人に迷惑をかけるようなことはしない。そこさえクリアできていれば、先生方もわたしたちをひとりの人間として尊重してくれる高校でした。

──部活動はしていたんでしょうか。

なつこ:いえ、毎日渋谷、原宿など街で遊ぶ女子高校生活を謳歌していました。中学時代のスポコン生活の反動だったのかもしれません。ただ、高2からバドミントン部にも少し関わりも持ち始めました。人数が少ない部で、たまたま覗きに行って打っていたら、「上手い!入ってよ!」と言われてしまって。試合前後だけ行って、試合で勝ちまくってくる幽霊部員みたいな立ち位置でした(笑)

──それ、マンガに出てくる天才キャラクターじゃないですか……! よく反感を抱かれませんでしたね。

なつこ:話だけ聞くとかなり嫌な子ですよね(笑)歓迎してもらえていたのは、部の人数がギリギリだったのと、高校時代のわたしは遊んでばかりのタイプだったので、スポ根の一面がマジメタイプの子たちにおもしろいギャップだと捉えてもらえたからだと思います。

わたし自身、ただ無為に遊んでいる自分だけではなく、中学時代のようなスポ根な自分もやっぱりキープしておきたいという思いがあるタイミングでもあったのでしょう。

限界に挑戦して受験した大学を中退、海外へ

なつこさん

──私立高校の場合、大学はエスカレーター式での進学もありますが、なつこさんはどうでしたか?

なつこ:簡易な内部試験のみで進学できるエスカレーター式の高校でした。だけど、「もっと高みを目指したい」「高校の人間関係とは別の世界に飛び込みたい」という欲求が湧いてきてしまって、外部受験を選びました。高校進学でも親と揉めましたが、ここでもまた揉めましたね……。「せっかくエスカレーターで進学できる高校に入ったのに」と言われましたが、聞く耳を持ちませんでした。

「目指すなら1番上」と思っていましたが、理系科目がダメだったので、ひとまず私立に絞りました。心配だったので、目ぼしいところを全部で10くらい受験しましたね。

──何になりたいとか、何を学びたいとか、そういったことは?

なつこ:考えていませんでした。何になるかは進学してからあとで考えればいい、まずは選択肢ができるだけ広がるよう、高みを目指そうと思っていましたね。大学受験って、傾向と対策が大切なので、その分析が楽しくて。予備校の先生がおもしろかったこともあって、おそらく受験自体にハマっていたんじゃないかな。詰込み型の受験勉強も、案外おもしろいなあと。

──受験にハマる……羨ましいです。

なつこ:特に早稲田の試験問題が練りこまれていておもしろかった記憶がありますよ。あくまでもわたし個人の感覚ですが。

──ちょっと共感ができないのですが(笑)最終的に、大学は何を学ぶところに行かれたのでしょうか。

なつこ:教育学部国語国文科です。

──え、教育学部。

なつこ:ここで教育学部がくるんです。別に先生になりたくて進学したわけではないんですが。

第一志望は同じ大学の法学部だったんですが、唯一そこだけ落ちてしまって。だったら別の大学の法学部に行けばいいのでは? という話なんですが、わたしは法学部に行きたいという思いよりも「この大学に行きたい」思いが強かったんです。

──だから、受かっていた教育学部に進まれたんですね。

なつこ:はい。ただ、いざ進学してみると、授業が本当におもしろくなくて。特に1年生は基礎教養を身に着けなければならないのですが、わたしには時間をムダにしているようにしか思えなかったんです。これを4年間つづけるのかと思ったら耐えられなくなりました。「あと300万円もこの時間に払うの?“大学卒業”のためだけに?」とも思いましたね。結果、「ダメだ。これは海外に行こう」という決断に至りました。

──なんと。

なつこ:話していて、あらためて短絡的な人間だなと思うんですが……(笑)海外の文化に直に触れたくて、イギリスに行きたいと親に直談判したんです。「残りの300万円を使って海外に行かせてくれ」と。親からは「ふざけるな」と言われました……(笑)

──そうでしょうね……(笑)

なつこ:大学のために出すお金であって、海外に行かせるためのお金じゃないと言われたので、「それもそうだな」と納得しまして。そこで諦めず、自分で資金を貯めて行くことにしたんです。バイトを掛け持ちしてお金を貯め、冬に2カ月ほどロンドン留学に行きました。

──有言実行……! イギリス、いかがでしたか?

なつこ:毎日が非日常で。語学学校に通いながら、スポンジのように見るもの感じるものをぐんぐん吸収していきました。日本と比べてアートの敷居が低い国なので、しょっちゅう美術館に行っていましたね。前衛的な現代美術に特に惹かれて、何十分も同じ映像作品を眺めたりなんかして。ヴィンテージのマーケットや骨董市に行ってみたり、鼻にピアスを開けてみたり、やりたいことは何でもやっていました。

ただ、困ったのはごはんがまずいこと。初めの1ヵ月間はホームステイをしたんですが、ゆでただけの野菜が夕飯に出てくるんです。まずいというか、味がない……。

──ロンドンの食事は日本人に合わないと聞いたことがあります。

なつこ:そうなんです。1週間だけ耐えて音を上げました。醤油を買ってきて、とにかく何にでもかけて食べていました。醤油は偉大です。日本の食文化の豊かさに気付かされた留学でもありましたね。

──2ヶ月のロンドン留学から帰国後、大学はどうされたのでしょうか。

なつこ:やめました。半ば無理やり退学届けを出しましたね。このころには、親も「なつこは言い出したら止められない」と半ば諦めていたんだと思います。

中退後は、もう一度海外に行きたいと思って、昼・夕方・夜とバイトを3つ掛け持ちして費用を貯めていました。現地に溶け込んだ暮らしを経験したいと考えていたので、今度はワーキングホリデーで行こうと。費用は当時50万円程度あればOKだったのですが、がむしゃらに働いて短期間で作りましたね。今思うと、よくやったなという無茶な働き方をしていたんですが、とにかく時間がもったいないと思っていたんです。常に時間短縮を考えているので、生き急いでいると言われたこともありますね(笑)

──次はどの国に行かれたのですか?

なつこ:カナダです。同じくまず1ヶ月ほどホームステイをして、その後1年弱の間は語学学校には通わず、現地の若者のように働きながら暮らしました。最初は日本食レストランで働き、その後現地で人気のカフェでバイトをしました。向こうでは、履歴書を持参していきなり「雇ってください!」と打診するんです。

カナダで働いていたカフェ
カナダで働いていたカフェの写真を提供していただいた

──異国の地でそれは勇気がいりますね……。職探しで困ったことはありませんでしたか?

なつこ:履歴書作りを入念にして、かなり緊張して行ったんですが、歓迎していただけて意外なほどすんなり入れましたね。日本人は働き者だという認識があるおかげです。これは当時本当に顕著で、日本人というだけで好印象を抱いてもらえるところがあったなと思います。そのカフェは働けることに誇りを感じられる有名店だったので、あからさまに怠惰な同僚はいませんでしたが……。

──お客さんとのやり取りも、日本とは異なる部分がありましたか?

なつこ:お客さんを神様扱いして、とにかく丁寧に下手にでるのではなく、フランクに「どう?最近は」と会話できるような対等な関係性が印象的でしたね。今は日本でもこうした接客が増えてきているのかなとも思いますが。

カナダに行ってみて思ったのは、バックグラウンドや価値観が大きく異なる人が多い風土のなかでは、人はとても息がしやすいんだなということです。カナダは移民の国なので、いわゆる「カナダ人とは」といった民族意識が固定化されていないんです。異文化に対してフラットに尊重する姿勢を持ち合わせている人が多くて、わたし自身も多様性を認める価値観を高められたと思っています。

──お話を聞いていると、なつこさんにはカナダの空気が合っていたのかなと感じます。

なつこ:お付き合いしていた人と結婚話が出たこともあります。永住したい気持ちが強かったので、結婚しようかと迷いました。ただ、結婚はやはり難しいだろうなと。

わたしは、せめて人生を共にするパートナーとだけは、精神的な深層部分を極限まで理解し合える関係性を築きたいという気持ちを強く抱いていて。英語は上達しましたが、そうした深いところまで話すには、母国語レベルで英語を使えなければなりません。その英語力を身に着けるには、10年ではきかない長い時間がかかるだろうと思いました。

さらに、体調を崩してしまい、帰国せざるを得なくなってしまったのも滞在しつづけられなかった理由です。原因不明の体調不良で、立ち上がれなくなってしまって。2ヶ月入院して、少し体調が落ち着いたときに仕方なく帰国したんです。帰国後も即入院しなければならない状態でした。

──よくぞご無事で……。ご両親、びっくりしたでしょうね。飛び出していった娘が帰国後すぐ入院だなんて。

なつこ:ねえ。心配をかけていたんだろうなあと今になって思います。親、やさしくしてあげなきゃなあ……(笑)

──その後、体調はいかがですか?

なつこ:完治したわけではないんです。再発のリスクもあります。「なんでわたしが病気になっちゃったんだろう」とつらく思っていた時期もありました。

わたしは3人の子どもに恵まれましたが、妊娠出産にも関わる病気なので、この点に関してはありがたいことだなと思います。

これまで、やりたいことは全部やる人生を選んできたわたしですが、心のエネルギーと身体の状態でジレンマを抱かざるを得ないことがあるのだと今は思っています。やりたいことを続けるためには休息も必要。わたしはブレーキがない自動車だと言われたこともある人間なので、身体がサインを出してくれたのかもしれませんね。

帰国後、就職・結婚・出産。専業主婦時代は楽しくも苦難の時代だった

なつこさん

──なつこさんは、現在三人のお子さんがいらっしゃいますが、若くして第一子を出産されていますよね。

なつこ:24歳のときに一人目となる長男を産んでいます。

──帰国して退院後、結婚に至るまではどのような流れがあったのでしょうか。

なつこ:夫は大学在学中に働いていたバイト先の仲間であり、学部は異なりますが同じ大学に通っていました。付き合い始めたのは、カナダから帰国したあとです。いいときも悪いときも、わたしが海外に行っていて音信不通気味のときも、変わらず細く長く友人関係であった貴重な友人のひとりでした。

仕事は、退院後に知人の紹介で老舗ホテルの改装休業前の1年弱にホスピタリティサービスを身に着けたあと、世界最高峰のおもてなしで有名な一流ホテルで働いていました。創成期メンバーのひとりとして、大きな誇りをもっていたんです。ただ、彼と同棲をするために両家の親に挨拶をしていた時期に、妊娠がわかりまして。

よく聞く話ですが、エコー写真を見た瞬間に産む決断をすぐに下せました。仕事の代わりはいるけれど、この子の命を守り育めるのはわたししかいない。産まないなんていう選択肢はないんだと悟りのように感じていました。

とはいえ、一通りのことを済ませて落ち着いたあと、泣いてしまったのも事実です。「何で今なの……!」と。子どもを授かった嬉しさと仕事上のタイミングによる困惑とは、働く女性の多くが抱える感情ではないでしょうか。

──産休育休については考えましたか?

なつこ:わたしは何事にも全力投球したくなるタイプなので、育児と仕事を両立させられる自信がなかったんです。両方中途半端になってしまうジレンマに耐えられず破綻してしまうと思い、退職を選びました。職場が本当に大好きだったから、半端になって迷惑をかけてから辞めることになるのは避けたかったんです。上司をはじめ、会社からはあたたかい言葉をいただけて、本当にあの場所で働けてよかったです。

──仕事と家庭との両立、課題ですよね。

なつこ:当時は、「3歳神話」を信じていたんです。小さいうちは、自分の手で我が子を育てたいと思っていました。今は、その家庭に合ったやり方で構わないと思うようになったのですが。

その後、母親のキャパシティがそれほど大きくないと実感したため、ひとりっ子でもいいのかなと思っていたんですが、長男にきょうだいがいてもいいのかなと思うようになったタイミングで運よく授かり、紆余曲折の結果、3人の子どもに恵まれて今に至ります。

──では、しばらく専業主婦だったんですね。

なつこ:末っ子が入園するまでの9年間ずっとですね。結婚するまではほとんどしたことがなかった料理もがんばって、家もピカピカに保って、毎日友達とランチしたり家に行ったり呼んだりして。専業主婦の生活も楽しんでいました。

ただ、その生活のなかでも、「わたし、このままずっとこの生活でいいのかな」という漠然とした不安が押し寄せてくることがあって。その気持ちが限界にきたのが、3人目の子が歩き始めた頃のこと。てんやわんやな生活で、物理的にできていたことができなくなって。家での生活がストレスフルなことであふれてきた頃でした。

──てんやわんや具合が目に浮かびます……。

なつこ:夫は海外出張が多い激務で、平日はワンオペなんです。すると、気づけば朝から晩まで何かをやらかす子どもを順繰りに叱っている自分がいる。母からの「家のことをちゃんとしなさい」という言葉、わたしのなかにある「きちんとしつけをしなくちゃ」という生真面目さによる重圧。わたしはもともと大きな声で怒る人が苦手なんですが、その苦手な人に自分がなっていく嫌悪感。このころは、自分がどんどんダメな、嫌だと思ってきた人間になると感じていて、本当につらかったです。

──末のお子さんが入園し、念願叶って仕事を始められたんですね。

なつこ:フルタイムの仕事と両立させられる自信がなく、週2、3回程度のパート勤務を始めました。接客が好きなんですが、これもブランクが怖くてパン屋の製造を選びました。あんなに仕事が好きだったのに、パートを務められるかどうかが不安で仕方ありませんでした。専業主婦が暮らす社会と仕事をする社会との間にはギャップがあるため、ブランクが長くなればなる分、仕事をする社会で自分がやっていける自信が失われていってしまうのかもしれません。

──カメラはいつ頃からされていたのでしょうか。

なつこ:イギリスやカナダに行っているときからデジカメで撮影はしていましたが、熱中し始めたのは第一子が生まれてから買ったミラーレスカメラからですね。我が子の今だけの姿をきれいに残したくて。

そのほか、1年に1回家族写真をハウススタジオで残していました。ただ、いわゆる写真スタジオではなくて、インテリアに馴染んで引き立て合ってくれる写真が理想で。当時、ネットを駆使して調べに調べました。結果、今では予約がなかなか取れない人気スタジオになったスタジオに出会い、12年間毎年撮影してもらっています。

家族写真なつこさん
探しに探した理想のスタジオで撮ってもらった1枚。なつこさんが目指したい理想は、ここにあるのだという

わたし自身も、撮っていくうちに写真にこだわりたくなってきて、1年後に一眼レフカメラの入門機を買いました。さらに本格的にさまざまなシーンを撮るようになったのは、3年前のことなんですよ。それまでは、オート機能でただ撮っている程度だったんです。

──設定、難しいですもんね。

なつこ:使いこなしたくても、子育てでいっぱいいっぱいで、深入りしきれない自分がいました。末っ子の入園を機に、熱中できることとしてのめり込んだのが写真でしたね。写真仲間と遠征して、いろんな写真を撮っていました。

なつこさんが撮影した写真
なつこさんに撮影した写真を提供していただいた

──その間にカメラマンとして働かれていたんですね。

なつこ:はい。仕事にできたらいいなあと思うようになって。働けそうなハウススタジオはないのかなと探して見つけたところに足を運んでみました。うろうろと様子をうかがっていると社長さんが出てきたので、「写真が好きなんです。アシスタントとしてでもいいから、雇ってもらえませんか」と飛び込み営業をしました。それが年末だったので、年明けに連絡をくださいと言っていただけたんです。

──行動力が素晴らしいです。

なつこ:社長さんが出てきたのは偶然ですが、そこで行動できたのはカナダ時代に経験した突撃スタイルのおかげかもしれません(笑)年明けに行った面接では、持って行った写真を見て、「カメラマンとして採用しよう」と言っていただけました。あとから聞いたお話では、「学ばせてください!」という姿勢でアタックした点を評価してもらえたらしいです。社長さん曰く、最近では学びたいという姿勢で飛び込んでくる人はなかなかいないそうなんですよ。

カメラは本当に楽しくて、家族の協力のもと好きなことをやらせてもらっているからと、子どもとも大らかに触れ合えるようになりました。「好きな自分」でいられる時間の必要性をひしひしと感じましたね。

ただ、腱鞘炎と坐骨神経痛を起こしてしまったことから職業としてカメラマンを続けられなくなってしまい、退職を余儀なくされます。2018年11月のことです。

──精神的にダメージもあったのではないでしょうか。

なつこ:カメラマンとしては、もどかしい気持ちでいっぱいでした。でも、その一方で組織に属して職業カメラマンとして撮影する仕事への向き合い方には葛藤も感じていたんです。

どのような仕事でも、割り切らなければならないシビアさが求められるじゃないですか。組織に属しているとなおさらですよね。そこがわたしには難しかったんです。だからか、治療に専念して頭を切り替えようという気持ちになれました。わたしの理想は、組織頼みでは叶えられないものもある。自分で切り開いていくためにも、日々勉強だなと思っています。

なつこさん撮影
こちらもなつこさんが撮影した1枚

居場所を増やすことが、生きづらさを和らげるのかもしれない

──今は、アパレルショップでの販売員の他、個人でフォトレッスン活動やアクセサリー制作をされているんですよね。

なつこ:アパレルショップでのアルバイトには、カメラマンを辞めて治療を受け、身体が動くようになった頃に出会っています。客として買いものに行ったお店でスカウトされる形で入ったんです。

もともと服が好きだったこともあり、正社員として一生働く仕事だと深く考えるのではなく、チャレンジしてみようという気持ちで申し出を受けました。週2、3くらいのペースで働いています。必要なお客さんには提案やアドバイスをしっかり行うタイプのお店なので、自分の力量が数字に反映されるんです。評価の軸がわかりやすい点が、ホスピタリティサービスや子育てとは異なるおもしろい部分ですね。

アクセサリーは、わたし自身が作家さんのものを買うのが好きだったところからきています。幼稚園で知り合った友達に作り方を見せてもらい、自分でも作るように。ママグループで作って、ネットで販売する活動を始めたんです。ママが自分らしくいられる時間にもなるなと思って。

なつこさんの作る「楔」のアクセサリー。木のぬくもりが伝わる一点ものだ
なつこさんの作る「楔」のアクセサリー。木のぬくもりが伝わる一点ものだ。モデルはお客様第一号の裕子さん

ママたちと作っているアクセサリーとは別のアイディアを形にしたのが、kusabi.のアクセサリーです。木を使ったアクセサリーを作りたいと思って、友達の大工に余った木材をどうしているのか聞いたことをきっかけに生まれました。良質な無垢の木材を使って注文住宅を作り続けている大工さんなので、「捨てるよりも木が喜ぶよ」と快諾してもらえて。こちらはママグループとは別に、個人活動として制作しています。

──わたしは越谷市の「はかり屋」のイベントKOSHIGAYA PHOTOWALKでなつこさんと知り合いましたが、なつこさんは今、はかり屋のTSURUTOさんと共同でkusabi.の展示会も行っているんですよね。

なつこ:そうなんです。ご縁が形になって実現しました。

kusabi.のアクセサリー
銀座で行われている展示会では、kusabi.の新作アクセサリー「モクヘン」が並ぶ

はかり屋でジュエリー作家として活動されている裕子さんとの出会いがきっかけです。裕子さんは、kusabi.のアクセサリーを気に入ってくださって、お客様第一号になってくれました。KOSHIGAYA PHOTOWALKへの参加も、そのご縁から広がる形で始まったんです。今は、kusabi.の活動や自分が理想とする写真の活動を行っています。KOSHIGAYA PHOTOWALKも、参加者だったのが講師として迎え入れてもらい、今に至っています。

輪が広がることは、精神衛生上いいことだなとも感じています。特定の付き合いだけになってしまうと、空気を読んでしまい、ありのままの自分ではいられない癖が出てしまうんです。

子どもの話、夫の話、仕事の話。それぞれ悩んだり愚痴を吐きたかったりすることがあるんですが、どこでも思うがままに言えるタイプではありません。もちろん、大人としての節度は必要ですが、とはいえ何も言えないのも考えものだなと思っています。「わたしなんて大変じゃない、もっと大変な人がたくさんいる。わたしは恵まれている方なんだ」と客観的にジャッジしてしまうと、途端に素直に気持ちを言えなくなってしまうんです。

この傾向は、「母親」枠に自分が入ってから、また顕著になりました。小中学生の頃に感じていたような分かち合えない孤独感を抱くようになったんです。ただ、ここ数年、自分のなかで試行錯誤を繰り返したり多くの人と出会ったりするなかで、ずいぶんと肩の力が抜けました。

きっかけのひとつは、子どもの学校での役員なんですよ。役員ってネガティブなイメージも強いですが、自分にできることで何かに貢献できたり、多角的な関わりが持てたりすることは、自分にプラスになる部分もあるんだなと思っています。付き合う人や居場所を増やすことが、こうした生きづらさを和らげてくれるのではないかと感じています。

役割から解き放たれた「自分」のまま過ごしてもらえる場を作りたい

なつこさん

──これからの活動について、何かイメージされていることはありますか?

なつこ:写真の活動もアクセサリーデザイナーとしての活動も、無理はせず、わたしらしく続けていきたいです。その「わたしらしく」に最近加わったのが、「人の力を借りる」ことです。

もともと、わたしは自分ひとりで抱え込んで自滅するか、完璧にできないならやらないといった極端なところがあったんです。さまざまな仕事や役員の活動を経て、得意なことを得意な人に任せることは、全体のクオリティを上げるためにも必要なことなんだと思えるようになりました。

──いい変化ですね。

なつこ:写真もアクセサリーも、右腕になってくれるパートナーが現れてくれたんですよ。

写真に関しては、KOSHIGAYA PHOTOWALKだけではなく、ママたちに向けたレッスンをしたいなと思って、最近始動し始めたところです。お子さんとのカメラライフを楽しんでもらえるようになるのが目的なので、カメラや機械のことがわからない方にこそ来てほしいなあと思っています。

──別の形ではありますが、「先生」の夢が叶いましたね。

なつこ:そうですね……! 講師のほか、カメラマンとして撮影の仕事を依頼してもらえることも増えてきました。ありがたいことだなあと思っています。

妊娠も子育ても、努力がものをいう事柄じゃないんですよね。正解もありません。特にわたしのような努力で結果を勝ち得てきたタイプの女性にとっては、この違いが大きなダメージになってしまう。

親に教わってきた「生き方」と自分が思う「生き方」の齟齬に苦しむ人もいるでしょう。そうしたことが重なると、本来の自分を見失ってしまって、心身ともにつらい状態になってしまうこともたくさんあると思うんです。そんな女性が、束の間でもイチ女性として自分らしく楽しめるきっかけを作れたら。そんな風に思います。

こう思うようになったのは、ママ友たちがわたしに伝えてくれた「なつこさんは、わたしを新しい世界に連れて行ってくれた」という言葉がきっかけです。その時々の衝動に突き動かされるようにして今までやってきた自分の人生は、はたして正しかったのか。そう自問することもあったのですが、その過去の選択と経験が、今活きているのかなと。

みんなでもっと楽に、肩の力を抜いて子育てのある生活を楽しんでいける場所づくりをしていきたいですね。わたし自身も、まだまだ子育てが続くひとり。てんやわんやした日々を過ごしながら、ひとりの大人としての生き方も大切にしていきたいな。

なつこさん
夫婦のこと、子育てのこと、女性としての生き方……尽きない話の続きは、また今度。

なつこさんの三原色

コンテンツや出来事など、今のなつこさんの元になる「三原色」を挙げてもらいました。

好奇心

子どものころから、とにかく好奇心が旺盛でした。自分の知らない世界は全部ぬりつぶしていきたい感覚ですね(笑)

例えば、勉強のできる優等生タイプだった中学生時代にはちょっと不良っぽい子たちと一緒に遊ぶのを好んだり、高校時代自由に遊び回っていたかと思えば、突然大学受験に精を出し始めたり、海外に行ったのも2人目以降の子どもを自宅出産したのも、写真やアパレルの仕事をしているのもすべて、知らない世界を見てみたかったからです。

なんでも実際に経験してみないと気が済まないので、明らかに苦労しそうな道でも、人から経験談をきいても、みんな人間がちがうのだから進んでいく過程はちがう、得られる結果もちがうはず、ととにかくフィールドワーク主義でした!

今もいろんなことへの原動力となっています。

美しいもの

これはもちろん「自分が思う」ということですが、素敵なもの、綺麗なもの、センスを感じられるものが昔から好きでした。

とにかくファッション・インテリアから始まり、写真、音楽、建築、映画や小説、お料理に至るまで、素敵な空気が感じられるものが大好きで、そういうものに出逢うといてもたってもいられなく、頭の中がぎゅーっと締まってアドレナリンがあふれ出すような感覚に陥ります。

若い頃海外にいる時なんかにはよく美術館に足を運びました。カナダで暮らしている時には、足も届かないのに一目ぼれして購入したヴィンテージの自転車を乗り回してひとり悦に入っていたり。

今手掛けている写真の作風やアクセサリー制作も、そういう感覚から生まれていると思います。特別おしゃれなひとなわけでは全然ないのですが、絶対にこれはいい!!という根拠のない確信はあります(笑)

そういう「素敵!」と感じられるものに突き動かされて、引っ張られるようにここまできた気がします。

人との出会い

思えば若い頃から、何かの節目にかならず誰かが現れて、わたしを新しい世界へ引っ張り上げてくれることの連続でここまでやってきました。人生は人との出会いの積み重ねですね。

今まで関わってくださったたくさんの人たち、今繋がってくださっているたくさんの方々への感謝の気持ちを忘れずに、今度は自分が恩を返す時だと思っています。

今周りにいる方々の、何か力になれること、きっかけになれることをわたしも投げかけられる人間になっていきたいと、近年強く思うようになりました。

今回の「ミチイロビト」の振り返り

なつこさん

埼玉県生まれ、在住。大学在学中にイギリスに留学し、中退後カナダへ。帰国後に結婚、出産。3児の母となる。9年間の専業主婦時代を経て、パートとして仕事を再開。ハウススタジオカメラマンを経て、現在は越谷市を中心に行っているフォトレッスン、無垢の木材から作るアクセサリーブランドkusabi.など、精力的に活動している。

Instagram(個人アカウント):natsuco_graphy
Instagram(kusabi.):kusabi_woodaccessories

About The Author

卯岡若菜
1987年生まれのフリーライター。大学中退後、フルタイムバイトを経て結婚、妊娠出産。2児の母となる。子育てをしながら働ける仕事を転々とし、ライターとしての仕事を開始。生き方・働き方に興味関心を寄せている。
Follow :

Leave A Reply

*
*
* (公開されません)

Column

More