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意味がないかもしれない「趣味」を楽しみつづける意味◆山崎ナオコーラ「趣味で腹いっぱい」

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約 6 分

「生産性のある人」こそが正しい在り方だという考え方は、生きづらさしか生まない。生産性という観点から見たとき、役立たないもののすべてが無意味なものではなく、そこに「好き」や「楽しい」があるのならば、その人には意味があるものなのだといえるでしょう。

「お金にならないことは意味がない」「お金にならないのに、よく続けられるね」

こうした言葉にもやもやしたことがある人に読んでほしい小説が、山崎ナオコーラの小説「趣味で腹いっぱい」です。

趣味は「努力の先に何があるわけでもないのがいい」

主人公は30代の夫婦、鞠子と小太郎。小太郎は銀行員、鞠子はアルバイトとして働きながらも、メインの役割は主婦。「子どもがほしいね」と話しながら、まだ授かってはいません。

冒頭、鞠子が「趣味を始めたい」ため「野菜を買ってきて」と小太郎に頼むところから物語は始まります。鞠子が始めた趣味は、絵手紙。

「カルチャーセンターでやっているサークルに行ったら?」「きちんと教えてもらった方がいいんじゃない?」

そうアドバイスする小太郎に対し、鞠子は「楽しくやることだけに集中したい」と返します。

「努力の先に何があるわけでもないのがいい。上を目指さない。競争をしない。そこが素敵だな、と思ったの」

絵手紙を発端に、鞠子の“趣味”はどんどんと広がりを見せていきます。一方の小太郎は、子どもの頃から触れてきた、父の「働かざるもの、食うべからず」という価値観に強い影響を受けていました。

労働は尊い。お金を稼いでくることは立派なことだ。自立することこそが大切なんだ。

本当にそうだろうか。本当にそれだけなのだろうか。

幼い頃に抱いた疑問と、それでも生活にはお金が必要だという事実。仕事と趣味。極めることと、楽しむこと。

異なる価値観を持つ小太郎と鞠子、そして趣味が出会わせてくれた人や、広げた先に待ち受けていたできごと。

「誰かと競わず、ただ楽しむことだって尊いことなんだよ」。そんな気持ちになれる小説です。

「お金を稼いでいる」ことによる自信と幸せ

「自立するように」と言われて育った結果、わたしは人に頼るのが壊滅的に下手な人間になりました。どこまでが自立で、どこからが甘えなのかがわからない。わたしのような状態の人は多いのではないかと感じてもいます。

精神的自立や経済的自立など、「自立」にもさまざまな形があります。親のいう「自立」がどこを指していたのかは定かではありません。しかし、いずれにせよ「自立こそが正しい」という価値観は危うい。SOSを発せなくなった先に行き着くのは、虐待であり、孤立であり、自死です。

「趣味で腹いっぱい」の小太郎の母親は専業主婦。彼女は、父の発言に疑問を抱いた息子に「家のことも仕事」だと「思いたい」と語りました。

「堂々と夫に『家事や育児も仕事だ』とは言えない」という彼女の思いは、専業主婦にならざるを得なかった女性にとっては、強く共感を覚えるものなのではないでしょうか。

 

「生涯で一度も稼いでいない人で、『幸せ』って言い切る人をお母さんは知らない」と小太郎の母親は言います。実際に、わたしも長らく“お金を得る”仕事ができなかった主婦の多くから、働き始めて精神衛生が保てるようになったという話をよく耳にしてきました。お金は、自信の種になる。「自立した人間なんだ」と思える材料になるのです。

子ども時代の小太郎は、そんな母親に「奥さんにも仕事をさせてあげなさい」と言われ育ちました。「働かざるもの、食うべからず」の価値観に反対しているようで、結局父親と同じく「お金を稼ぐ仕事をしていた方がいい」というのが母親の考え方だったのです。

しかし、大人になり結婚することになった鞠子は、主婦を希望する女性でした。高卒で就職した小太郎とは異なり、大学院卒でフリーターだという鞠子に、小太郎は「勉強は何かの役に立てるためにするものでは」と尋ねます。小太郎にとっての勉強は、就職のためのものだったからです。

鞠子は、「そういう風に考えたことがなかった」と答えます。「勉強すること自体に面白みを感じていたから」と。

そして、お金を得ることに執着のない鞠子は、アルバイトの傍ら趣味を楽しみ、家事を担う主婦になりました。

 

意味がないかもしれないことが、どこかの誰かの意味になる日

何かを行うのであれば、極めなければ意味がない。上昇志向こそが正しく、上を目指すことが当たり前。そのためには、時につらさに耐えることも必要だ。

わからなくはありません。しかし、その価値観だけを抱えて生きるのは息苦しくないでしょうか。

「好きこそものの上手なれ」といわれるように、好きが発揮するパワーは大きい。しかし、上達は結果であり、必ずしも目的ではありません。下手の横好きであっても、本人が楽しければいい。下手だから意味がないなんてことはない。下手なものに時間を割くことは無駄とイコールではないでしょう。

 

意味のあるもの、有益なものがもてはやされて、無駄なものや無益なものはカットされがちな昨今ですが、意味がないからこそ意味があるものだって、きっとある。一見無駄に思える事柄が、新しい酸素を届けてくれる空気穴になるのではないか。そんなことを思っています。

そして、楽しさを追い求めて続けてきたことが、どこかの誰かを照らす光になることもあるのです。

美しい「他立」を身に着けたい

終盤、「他立」という言葉が出てきます。

「自立に美しい立ち方があるように、他立にも美しい立ち方があるのかもしれない」

他立は、依存とは異なるものなのかもしれない。自立迷子のわたしに、このセリフはそっと寄り添ってくれました。

人はひとりで生きているのではありません。また、自立している人間が、いつ何時でも自立していられるとも限らないのです。

つらいな、しんどいなと感じるときにも日々を健やかに生きていけるよう、美しい他立を身に着けたい。そう思います。

有益さばかりを追い求める社会は、価値を作れなくなった人を簡単に排除してしまいかねません。たとえ排除されなくても、何かを生み出せないことに追い詰められて行き場をなくしている人は、今すでにいるでしょう。このままいくと、どんどん息苦しい社会になってしまうのではないか。そう、危惧しています。

意味なんてなくたっていい。子どもの頃のように、シンプルな「好き」や「楽しい」に飛び込むことは、きっと命を未来につなぐ力になる。

About The Author

卯岡若菜
1987年生まれのフリーライター。大学中退後、フルタイムバイトを経て結婚、妊娠出産。2児の母となる。子育てをしながら働ける仕事を転々とし、ライターとしての仕事を開始。生き方・働き方に興味関心を寄せている。
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