偏愛──それは、何かに偏った愛情を向けること。ものだけではなく、人にも用いられる言葉です。
最近では、「偏愛」と似たものとして、人やキャラクターに対して「推し」という言葉を用いる人もいますね。
幼い頃、わたしはアニメ「セーラームーン」シリーズを偏愛していました。父の転職の都合で大阪に引っ越すことになったときには、母に「おおさかでもセーラームーンはやっている?」と尋ねたほど。
大量にやらせてもらったカードダスは、今でも処分できなくて、実家のクローゼットにしまわれています。
ただ、そんなに好きだったセーラームーンの「好き」は、ある日を境に公言できないものになりました。
詳しくは、過去に書いたこちらのnoteをご覧ください。
誰かからのささいな一言で、私たちは時に「好き」さえ自由に言えなくなる。いつだって誰の目を気にすることなく「好き」だと叫べるほど、強い人ばかりではないでしょう。
私は、好きであればあるほど、言葉にすることに憶病になる。それは、心無い一言に否定されたり馬鹿にされたりすることを、極度に恐れているからです。
でもね、それでもね。やっぱり「好き」は、明るい。誰かが何かを好きでいる姿は、周りまで明るく照らすものだと思うのです。
「特に好きなものってないなあ」「好きなものがあるっていいね」
そんな言葉を見聞きすることもあります。でも、「好き」って、そんなに大げさなものではないよ。もしかしたら気付いていないだけかもしれない。今、特に思い当たるものがなくたって、これからいくらでも好きになれるきっかけはあるはず。
誰かの偏愛に触れてみたい。新しい「私の好き」に出会ってみたい。
そんな思いから、さまざまな人に「偏愛」を語ってもらうことにしました。
好きなものを好きなだけ、好きだと安心していえることは、とても素晴らしいことだと思うのです。
そんな「私の偏愛」コラム、はじめます。